上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

その時、慶良間で何が起きたのか 6

2013-03-30 09:09:38 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

 3月27日、夜明け前、またおれたちA中隊の出番だ。

 A中隊は渡嘉敷島の最南端の海岸線に音も立てず上陸した。 辺りはまだ暗い。

 俺たちの役目は、午前8時の上陸前艦砲射撃までに阿波連村落の裏側の尾根を占拠することだった。 つまり、艦砲射撃を避けて逃げてくる日本軍を待ち伏せしようという狙いだ。

 そううまくいくはずはないと思ったが、実際その通りになった。 3月27日予定通り、おれたちは午前8時、目的地に到着し、着色発煙手投げ弾を爆発させ、上空の偵察機におれたちの位置を知らせた。

 すぐに、艦砲と野戦砲が発砲し、砲弾が眼下の阿波連村落に降り注いだ。 しばらくすると、退却する日本兵らが山を駆け上がってきた。 およそ半時間、日本兵らは飛んで火に入る夏の虫とばかり、狙い撃ちにされた。 200人のジャップをやっつけたとだれかが言った。おれが見たのはせいぜい50人ほどだ。おれたちの損害は2,3人の戦死者と5,6人の負傷者だけだった。

 ※(注) これまでのいかなる戦記にも渡嘉敷の最南端の浜(ヒノクシ)にアメリカ軍が上陸したことは書かれていない。 ところが昨年筆者が渡嘉敷村の金城武徳さんから入手した「渡嘉敷第三戦隊の陣中日誌」に「三月二十七日…第一中隊は阿波連より撤収するも渡嘉志久峠の敵に阻止され、突破すること得ず東方山中に潜伏…」との記録を発見した。 第三戦隊はアメリカ軍が裏をかいて、渡嘉敷最南端から闇(やみ)を突いて上陸し、待ち伏せしたことを知らなかったのである。 

「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。 山を下りる途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。

 

つづく


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