~1フィート運動騒動記~ 16
発起会の日、ぼくは自分をフィルム収集活動の事務局長と位置付け、実行委員会の若者たちと共に「1フィート運動」を進めることにしていた。
運営委員会のおエラ方は後ろで黙って見守ってくれればよかったのだ。 ところが、ぼくはおエラ方の顔を立てて、福地曠昭に挨拶をさせたのだ。 すると、彼はこう言ったのだ。 「上原君は若いので事務局長ではなく、事務局次長になってもらう」 「なんだ、これは」 ぼくは憤慨したが、皆の前だから黙っていた。後で宮里千里が白状したが、福地は上原に代わって宮里に事務局長になるよう工作していたのだ。 もちろん、宮里は断ったが、その時から既に福地は乗っ取りを計画していたことになる。 宮里千里はまだ30そこそこの活気盛んな活動家ではあったが、まだ良心があった。
先に述べたように上仮屋貞美という悪魔の手先が正体を顕わし、そして福地曠昭という良心を失った反戦活動家がその仮面を脱ぎ始めていた。
ぼくは上仮屋や福地を無視してフィルム収集運動をばく進させることにした。 こんな悪党に構っちゃいられん。 リチャード・プレリンジャーからフィルムのカタログが届き、新聞で次々この運動の活動が報じられると、次々にぼくの事務所に電話が殺到するようになった。 「どのようにお金を送ったらよいのか。」というのが殆んどだった。 ぼくは琉球銀行に口座を開き、振り込み先は各新聞で案内された。 ぼくの広い事務所の入口に小橋川肇が作ってくれた看板を置いた。 忙しい日々が始まっていた。 ボランティアで手伝ってくれる人も現れた。 毎日十数件もの募金が銀行に振り込まれるようになり、素晴らしい運動になろうとしていた。 運動は全国に広がっていった。
ぼくは募金額をオープンにし、寄付者氏名も全て新聞で発表するようにした。 特に子供たちは写真付きで発表した。 ある小学校から寄付金を取りに来てくれるように連絡が入ると、しばらく待つように伝えた。 というのも沖縄タイムスも琉球新報も毎日、1フィート運動の寄付の報道が続き、紙面が足りなくなっていたからだ。 1週間後にカメラマンと一緒にその小学校のクラスに行くと子供たちはポケットから100円玉を出して、3000円ほどの「大金」が集まった。 子供たちは一週間も大切な寄付金をポケットに、ぼくらを待っていてくれたのだ。 その時の小さな写真記事が子供たちにどれだけの意味を持っているか、ぼくは充分に理解していた。
琉球銀行の全職員は1人100円で総額45万円の寄付金を届けてくれた。 宮里千里と我謝幸男らの協力で那覇市役所の職員は幹部200円、一般100円で総額95万円を寄付してくれた。 1人で25万円を寄付してくれる人も現れた。 そこには思想信条を超えた沖縄の善意が凝縮されていた。 募金額も100万、200万、500万を突破し、4月には1000万円に達した。 ぼくは全ての寄付者氏名、金額、日付を記録していた。
大成功だった。
だが、その裏で、この世で最も醜い「餓鬼」どもがこの運動を乗っ取ろうと虎視眈々と狙っていたのだ。