~1フィート運動騒動記~ 7
ぼくは12月中旬からの沖縄タイムス、琉球新報の伝える「1フィート運動の活動に幕」についての福地の発言を取り上げ、「自然発生的に子供たちの100円カンパで始まった運動とか、県民一人一人が参加して作った運動とか、積極的な解散だ。 解散しても運動の火が消えるわけではもない」と嘘を並べて、自分たちが人々の善意を食い物にし、経営できなくなって、大失敗してしまったことを全く反省していない態度を非難した。 そして1枚の原稿を取り出した。 「お前らは読んでいないかも知れないが、これは俺が2008年琉球新報で連載した「パンドラの箱を開ける時」の最終章の原稿の一節だ。 1フィート運動について書いたものだ。 よく聞けよ。
==そうした裏でぼくの「1フィート運動を乗っ取る動きが進行していたのだ。 婦人連合会は1フィート運動の事務所を婦人連合会内部に持ち込もうと画策し、ある政党(共産党のこと)の連中はぼくの追い出し工作を図書館内で連日、進めていた。 沖縄教職員会の福地もぼくを事務局長から外し、那覇市職労のM君に事務局長になるよう打診していた。 彼らはぼくが集めた一千万円の寄付金も、机も、電話も全て取り上げた。 運営委員会がぼくに連絡もなく開かれ、国会で上映会を開く話に彼らが熱中している中に、ぼくは乗り込んで、怒り心頭に発して叫んだ。 「これは一体なんだ。 これは乗っ取りだぞ。 ぼくは明日にでも記者会見して発表するぞ。」 仲宗根政善は「上原君、君がそんなことをすれば、せっかくの運動も丸つぶれになる。 我慢してくれないか」と懇願した。 大田昌秀は「私のメンツを潰してくれるな」と怒鳴った。 こうして、ぼくが作った「1フィート運動」を乗っ取られてしまった。==
ぼくはこの原稿を読み上げて、七人の愚男愚女に目を向けると、誰も聞いていないことに気がついた。 奴らは記者会見の席で罵倒されて、嘘つき呼ばわりされて、すっかり正気を失って他人(ひと)の話を聞くどころではなかったのだ。
この原稿の一節にはさらに裏話がある。 2008年8月下旬、ぼくが「パンドラの箱を開ける時」の180回 最終章 ─そして人生は続く」でこの原稿を琉球新報に送った時、高嶺朝一社長を始め、幹部が編集会議を開き、「これはちょっとキツいんじゃないか」とぼくに書き直しを頼んできた。 その時には、不愉快であったが、大したことではなかったから、当たり障りのないものに書き直して送った。 最終稿181回に、ぼくは赤松嘉次さんと梅澤裕さんが集団自決を命じていないことを理路整然と短くまとめて、原稿を送ったところ、またも、高嶺社長始め琉球新報幹部が編集会議を開いて、書き換えを頼んできた。 ぼくは高嶺社長に代わって電話をしてきた名城知二朗に「絶対に書き換えない」と告げた。 本来、ぼくには著作権があり、誰も書き換えやあれを書けとか著作内容を指示できないものだ。 詳しいやり取りは控訴審で明らかにするが、ぼくは書き換えを断固拒否した。
ところが、何と、琉球新報の翌日の新聞には最終稿が発表されなかったのだ。 琉球新報は「赤松さんと梅澤さんの汚名を晴らす」ぼくの最終稿をボツにするという前代未聞の愚挙に出たのだ。 これが、今ぼくが琉球新報を訴えている理由の一つになっている。 そして歴史は誰にも先を読むことはできないのだが、あの時、「大したことではなかった」1フィート運動の内幕が大きな意味を持って今、読者に伝えられている。