上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

上原正稔の感動と驚異のウチナー口集中講座いよいよ始まる!

2013-10-28 13:13:30 | 告知

上原正稔の感動と驚異のウチナー口集中講座いよいよ始まる!

 講師の上原正稔は琉球諸島の地名、人名、信仰、民俗行事、芸能、おもろなどあらゆる分野にわたる理解不能そして意味不明な言語の全ては梵語(仏教語)で見事とに解明されることを皆さんに伝えたいと希望しております。

 これによってこれらの島々に住む人々の「大いなる歴史」が明らかにされ、皆さんはひとりの「人間」としての本当の自信と誇りを享受することになるでしょう。私はその感動の世界を皆様にご紹介できることを喜びとするものであります。

講座主催者 上原文一 記

 

講座名           琉球列島の言語文化と梵語(仏教語)

 1.集中講座期間       2013年(平成25年)11月20日~12月2日まで

                                          下記の通り、全5回で毎回午後2時~4時まで

 

 2.場 所                            那覇市民会館和室会議室(那覇市寄宮1-2-1)

                                          開室:午後1時

                                          退室:午後5時

                                          講座時間外は自由な質疑応答

 

 3.講座内容

1回目 11月20日(水) 神々しいウチナー女性の名前 にらい・かないの謎を解く

 

2回目 11月22日(金) 浦添ようどれ、園比屋武御嶽、グシクなどの真の意味

 

3回目 11月27日(水) 「おもろ」の新しい見方、読み方

 

4回目 11月29日(金) 「イザイホウ」の真実

 

5回目 12月2日(月)  参加者・受講者全員の名前と出身地名の真の意味。まとめと質疑応答

 

 4.講 師              上原正稔

 

 5.受講申込み方法

集中講座(計5回) 全日程参加可能な方。希望日のみ参加する方は事前に要相談、申込みは下記、上原文一までご連絡下さい。

 

6.資料代              全日程参加の場合 … 1万円

                          単発参加の場合 … 1回当たりの資料代3千円

※納付済みの資料代は還付できません。

 

7.主 催              上原文一事務所 〒901-0503 八重瀬町字新城1713

                            言語文化と梵語講座開設委員会(世話人 上原文一)

                            連絡先 090-2307-2009 TEL/FAX 098-998-9445

                            メール uehara2319@woody.ocn.ne.jp  (このメールアドレスは迷惑メール防止のために全角で記述しています)

受講希望者は上記の電話およびメールでお問い合わせください。

 

尚、講座受講前に全員にブログ上原正稔日記の「ウチナー口の秘密」そして講座受講日にその回ごとのレジメを配布致します。それが講師上原正稔の名刺代わりとなります。

 

※受講者全員の人名、出身地名を早目にお知らせ頂ければ、講座終了日までにその人名、地名の真の意味をお知らせできるものと思います。


「大綱挽」の「挽」は葬式車を挽く時に使う字だ! その2

2013-10-12 09:35:13 | 日記

「大綱挽」の「挽」は葬式車を挽く時に使う字だ! その2

前回の続き

那覇四町(ユマチ)ウーンナと庶民が呼び、記録では1812年の「那覇綱引規模帳」では「綱引」と記され、「西東綱挽之時日記」では「綱挽」と記され、その文書の中では「綱挽」、「綱曳」が入り乱れている。前日、指摘したが首里の綾門ウナーも四町ウーンナも語源は梵語の「yūna」(ユーナ)で「綱」だ。だが、今、ここで問題になっているのは「挽」という字がどんな意味をもっているか、ということだ。「挽歌」という言葉があるが、「挽」は棺(ひつぎ)を挽くという意味で、「挽歌」とはその棺の傍らで歌う悲歌(エレジー)のことだ。

こういう縁起でもない字を那覇祭りの中心に置いて「大綱挽」と全国どこの市町村も使っていない字を平気で使っている那覇市役所そして「大綱挽保存会」の良識が疑われる。

保存会委員長であった東江芳隆は2001年発行の「那覇大綱挽」という大型本の中で次のように述べている。

─那覇大綱挽の名称について─

那覇大綱挽の挽は誤字ではないかとよく新聞に書き寄せられたことがあった。

─中略─

綱挽の「挽」という字が歴史の中でいつ頃表われたかというと、1839年頃の古文書「那覇大綱挽之時日記」に表されていることからして、誤字、あて字ではない。れっきとした固有名称である。「綱ひき」という字は次のとおりたくさんある。「牽き、挽き、引き、曳き」どちらでもよいと思う。何故なら自らの生活文化に合致することであるからだ。

─中略─

決して誤字、あて字ではなく、固有の伝統文化であると確信をもって使用しておます。「挽」は当保存会の固有名称でありますので決して間違っておりません。─

 

その昔は大綱引とか大綱挽などと綱引に「大」を付けることはなかったことは「那覇綱引規模帳」や「西東綱挽之時日記」の表記でも明らかだが、「那覇大綱挽之時日記」などと文書のタイトルまで変えて自己正当化している始末だ。「固有名称」だから決して間違っておりません、などと、悪ふざけもいい加減にしてくれ、と言われても仕方がない。

そもそも、1971年那覇大綱引として出発したのが「大綱挽」と変わったのには次のような裏話があった。1975年頃のこと、大綱引委員会の集まりがあり、その中で仲井眞元楷(現仲井眞知事の父君)が「昔の文献では綱挽と使われており、大綱挽と改めるべきだ」と言ったのだ。委員会の面々は面食らったが、「綱挽」という字が間違っていると指摘できる者は一人もいなかった。「おかしいな」「変だな」と感じた者はいたが、歴史の権威と知られている仲井眞元楷先生に文句を言う勇気のある委員は一人もいなかったのだ。仲井眞は言い出したら聞かない、という頑固者だったから「大綱挽」はそのまま採用されることになったのだ。ぼくは委員の一人からその話を聞き、笑ってしまったが、これは「笑ってはならない話」だった。おかげで、40年近くも那覇市民は「大綱挽」を「挽」かされながらも誰も気づかず歴史的大恥を掻いていることにも気づかない。

(つづく)


「大綱挽」の「挽」は葬式車を挽く時に使う字だ! その1

2013-10-11 12:56:14 | 日記

「大綱挽」の「挽」は葬式車を挽く時に使う字だ! その1

今年も「つなひき」がすぐやってくる。沖縄ではかつて「つなひき」を「ウナー」と呼んでいた。首里では綾門(アイジョウ)ウナー、那覇四町(東、西、泉崎、若狭)で四町ウーンナと呼ばれていたそうだ。ウナーとかウーンナという言葉はどこから来たのだろうか?

梵語辞典はサンスクリットから日本語への流れは掴めるが、逆に日本語からサンスクリットの流れは掴めない。これが苦しいところだ。色々サンスクリットを調べているうちに「yūna」(ゆーな)にぶつかった。これだ!と思った。ユーナとは「綱」のことだ。ユーナからウナー、ウーンナに変わるのはわけはない。

中国語では「綱引」のことを「抜河」という。「河を抜く」ことがとうして綱引きになるのだろうか。

2年前のこと、ぼくがいつも図書館に通う途中に中学校があり、校庭の一角で若者たちが「那覇大綱挽」の準備をしているところにぶつかった。ぼくはそこの頭(かしら)に言った。”「綱挽」の「挽」の字は間違っているぜ。「挽」の字は「葬式車を挽く」ときに使われる字で、縁起でもない字だ。だから俺は30年間も那覇大綱挽に行ったことがないんだ。さっさと改めるように上の者に言ってくれ。字を書き直したら俺も心を入れ直して「綱引」に行ってもいいぜ。”

その「頭」が「上の者」にその旨、告げたことは間違いない。2011年10月2日、大綱挽保存会事務局長というやたら堅苦しい肩書きの野原由将は沖縄タイムスのオピニオン欄に返事を載せ、「那覇大綱挽」は1839年の古文書「那覇大綱挽之時日記」に「綱挽」としての固有名詞の記述がある旨、寄せてきた。「那覇大綱挽之時日記」などのタイトルの文書はない。それは「西東綱挽之時日記」のことだ。それも記録係の「筆者」がその場で記録したもので、誤字があってもだれも気にしない文書だ。実際、別の文書では「那覇綱引規模帳」というタイトルが使われている。

野原由将は上司の東江芳隆の言い分をそのまま記述しているにすぎない。二人とも那覇市をダメにした百人の中に入ることは間違いない。野原が言っていることで目新しいものは「中国では綱引きのことを抜河(ばっか)と称している」という記述だ。抜河とはサンスクリットの「bāhe」(バーへー)すなわち「綱」のことだ。抜河は発音記号にすぎず、中国語でバーヘーと発音する。それを「ばっか」とは「ばか」じゃなかろうか。

(つづく)


人名、地名の謎を解くには先ず、古名を知ること

2013-10-10 08:49:02 | ウチナー口の秘密

人名、地名の謎を解くには先ず、古名を知ること

平良はビイサラ、イシガキはイシャナギ

平良という地名がある。タイラと発音しては永遠に意味をつかめない。ヒララという発音もそうだ。宮古の平良は本来ビイサラと発音していたものだ。ここから発見の旅が始まり、ぼくらのジンブン(人文)が試される時だ。

梵語辞典を引いたり押したりして、ようやく「ヴィシャーラ」(viśāla)に辿り着く。ヴィシャーラとは「王様や菩薩の名」であり「聖地の名」であることを知る。

「平良」に住む人々は「聖なる地名」を知り、誇らしく思うだろう。

ぼくらは石垣島をイシガキ島と発音しているが、「イシガキ」からは何も生まれない。石垣の古名はイシャナギだ。これも「人文」を働かさせて、ようやく「イーシャ」(īśya)「ナガ」(naga)に辿り着く。イーシャは「シヴァ神」の別名で、ナガは「山」のことだ。つまり「神の山」が語源だ。ところでイシャナギという発音からピンと来るものがある。それは「古事記」のイサナギ、イサナミだ。イサナギ→イザナギ、イサナミ→イザナミの語源がイーシャナガ(神の山)あるいは(山の神)であることにつながるのだ。サンスクリットでは修飾語が前に来たり、後ろに来たり、かなり自由だからイサナギは「山の神」ということになる。イサナミはこれからの研究事項にして、しばらくこのままにしておこう。「古事記」まで調べ直す必要が出てくるとは大変な発見の旅になりそうだ。

ところでジンブンとは「人文」で「知恵」のことだ。ジンブンとは何か難しそうな漢字だろうと思っているのがほとんどだが、こんな簡単なことだったのだ。


アマミクとシネリクの語源を解く

2013-10-09 09:23:18 | ウチナー口の秘密

アマミクとシネリクの語源を解く

よく歴史の本や解説書にアマミク、シネリクが我々の始祖となったという神話が語られるが、アマミクとかシネリクという名前の意味を解明した者はいない。

四百年前の袋中上人の「琉球神道記」にも梵字でアマミキョ、シネリキョが琉球に下りてきた神話が記されている。梵字をここで紹介することはできないが、袋中上人は中国からの帰途に琉球に立ち寄り、ほんの数年滞在しただけだが琉球の神話を記録したものが「琉球神道記」だ。琉球でも梵字が使われていたことが判る。実際、戦前はかなりの梵字があちらこちらに残されていたが、今では数えるほどしかない。

それを解読できる者は一人もいないのが実情だ。四、五百年前の僧侶たちは梵字をスラスラ読んだり、書いたりしたのだろうが、今ではほんの数えるほどの梵字を書ける僧侶がいるだけだ。幸いにも、沖縄県立図書館には梵字辞典があり、それを徹底的に学べば梵字を解読できるだろう。

さて、今日は梵字の話ではなく、アマミキョ、シネリキョが梵語すなわち仏教語であることを君に知らせようと思う。

アマミキョとはサンスクリットの「アーマ ムキャ」(āma mukhya)が語源でāmaは”正に”、mukhyaは”指導者”のことで、漢訳では”正尊”のことだ。つまり「アーマ ムキャ」は”正に聖なる指導者”のことだ。

シネリキョとは「シューニャ ローカ」(śūnya loka)で空界すなわち”空(くう)の世界”を意味する。

「正尊」と「空界」という名の男女が我々の祖先だったことになる。

こうして「アマミク」「シネリク」と意味不明の始祖の名が明らかになったわけだが、これはほんの始まりにすぎない。琉球列島の地名、人名、年中行事の全てが梵語で解明されると断言してよい。

※パーランクーの語源について

先日、パーランクーの語源は中国語だと述べたが漢字で「抜浪鼓」と書く。現代の中国語では「ボーラング」と発音している。日本語では「デンデン太鼓」のことだ。逆に「デンデン太鼓」を日中辞典で引くと「抜浪鼓」が出てくる。発想を逆転することによって一つの謎が解明されることがよくある。


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