上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

その時、慶良間で何が起きたのか 9

2013-04-02 09:20:14 | その時、慶良間で何が起きたのか

ニューヨーク・タイムズ 1945年4月2日付 (訳:上原正稔)

前回のつづき

 

 小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。 軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。 まったく狂気の沙汰だ。 軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。

 全部で70人の生存者がいて、みんな負傷していた。 その中に、2人の日本兵負傷者(※)がいた。 担架班が負傷者を海岸の救護施設まで移動させる途中、日本兵が洞窟から機関銃で撃ってきた。 師団の歩兵がその日本兵を追い払い、救護が続いた。 生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。 「鬼畜米英の手にかかるよりも自らの死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。 それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。

 そして70人の生存者のうち、数人が一緒に食事している所に、日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵(※)に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵(※)を保護してやらねばならぬほどだった。 何とも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から泣きくずれた。 自分の娘を殺した老人は、よその娘が生き残り、手厚い保護を受けている姿を目にし、咽(むせ)び泣いた。

 また、別の島々でも同様な自殺、あるいは自殺未遂例があった。 慶留間島の洞窟では12人が絞殺されていた。 第77師団の歴戦の猛者たちも、このありさまをわが目で確かめるまで信じられなかった。 日本兵だけではなく、日本の住民まで“アメリカの野蛮人に捕まるぐらいなら死ぬ方がましだ”という信念で自殺する狂気の沙汰が実際に起ころうとは・・・。 集団自殺の現場を目撃し、日本兵の浴びせる機関銃の中をくぐり抜け、子供たちを助けたのが、ジョン・S・エバンス軍曹である。(1945年3月29日 アレクサンダー・ロバーツ伍長の談話より)

 

 ※筆者は1985年沖縄タイムスの「沖縄戦日誌」でこのニューヨーク・タイムズの伝える集団自殺の記事を初めて発表した。 “日本兵”も自殺現場にいたと思い込んでいたが、その後の調査研究で、“日本兵”とは実は防衛隊員であることが判明した。 ひとつの言葉の誤訳が事実を大きく歪めてしまったことを反省している。

 3月29日の記事が4月2日に報道されたのは、4月1日の沖縄本島上陸作戦が始まるまで報道規制されたためである。

 


 追記

「その時、慶良間で何が起きたのか」は2007年6月19日から琉球新報の「パンドラの箱を開ける時」第2話の「慶良間で何が起きたのか」で発表される予定だった最初の1週間分(5回)の原稿をそのままブログで発表することにしたものです。 読者も既にご存知のように、この原稿掲載を琉球新報社の前泊博盛、上間了、枝川健治、玻名城泰山(現編集長)の記者4人組が強制的に掲載拒否の暴挙に出て、上原正稔は那覇地方裁判所に訴えて裁判は継続中です。

しばらく休憩後、様々の資料を使って、赤松嘉次、梅澤裕両氏が自決命令を出していないことを完全証明し、お二人の長年の汚名を晴らすことにしたいと思います。


その時、慶良間で何が起きたのか 8

2013-04-01 09:22:56 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

ニューヨーク・タイムズ 1945年4月2日付 (訳:上原正稔)

渡嘉敷の集団自殺

 3月29日、昨夜、われわれ第77師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。 その時、1マイルほど離れた山地から恐ろしいどよめきの声、呻き声が聞こえてきた。 手榴弾が7,8発爆発した。「一体なんだろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。 仲間の兵士が1人射殺され、1人は傷を負った。 われわれは朝まで待つことにした。 その間人間とは思えない声と手榴弾の爆発が続いた。 ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何と言うことだろう。 そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。 この世で目にした最も痛ましい光景だった。 ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけだった。

 そこには200人ほど(注・77師団G2リポートには250人とある)の人がいた。 そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵※(実は防衛隊員である 以下※印の日本兵はみな防衛隊員のことであることに注意)がいた。 死体は3つの小山の上に束になって転がっていた。 われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。

 およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。 周囲には不発弾が散乱し、胸に手榴弾をかかえ死んでいる者もいた。 木の根元には、首を絞められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。 母親だと思われる35歳ぐらいの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、両手を背中でぎゅっと握り締め、前かがみになって死んでいた。 自分で自分の首を絞め殺すなどとは全く信じられない。 死を決意した者の恐ろしさが、ここにある。

 ─つづく


その時、慶良間で何が起きたのか 7

2013-03-31 09:17:11 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

 俺たちが姿を見せると、手投げ弾が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。 想像を絶する惨劇が繰り広げられた。 大人と子供、合わせて百人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。 慶留間の時と同じだ。 規模がすさまじい点が違うだけだ。 俺たちに強姦され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。

 年配の男たちが小ちゃな少年と少女たちの喉(のど)を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。 俺たちはナイフを手にしている大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。 狂乱地獄となり、数十個の手投げ弾が次々と爆発し、破片がピュンヒュン飛んでくるのでこちらの身も危ない。 全く手がつけられない。 おれたちは「勝手にしやがれ」とばかり、やむなく退却し、事態が収まるのを待った。 

A中隊の医療班が駆けつけ、全力を尽くして生き残った者たちを手当したが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。

 1日か2日後、工兵隊がやって来て、川岸に爆薬を仕掛け、惨劇の現場を埋めた。

 数ヶ月後、故郷へ帰る途中、俺がカルフォルニアでヒッチハイクをしたとき、年輩の男が拾ってくれた。 その時、彼は俺がオキナワ戦に参加したことを聞くと、自分の息子はトカシキという島に行った将校だが、息子の話では、豪雨の後、無数の人骨が川を流れ落ちて来たそうだが、アメリカ兵が多数の住民を虐殺したせいらしい、と語った。 俺たちが殺した。とは参ったね。 もちろん、本当のことを話してやった。 

つづく


その時、慶良間で何が起きたのか 6

2013-03-30 09:09:38 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

 3月27日、夜明け前、またおれたちA中隊の出番だ。

 A中隊は渡嘉敷島の最南端の海岸線に音も立てず上陸した。 辺りはまだ暗い。

 俺たちの役目は、午前8時の上陸前艦砲射撃までに阿波連村落の裏側の尾根を占拠することだった。 つまり、艦砲射撃を避けて逃げてくる日本軍を待ち伏せしようという狙いだ。

 そううまくいくはずはないと思ったが、実際その通りになった。 3月27日予定通り、おれたちは午前8時、目的地に到着し、着色発煙手投げ弾を爆発させ、上空の偵察機におれたちの位置を知らせた。

 すぐに、艦砲と野戦砲が発砲し、砲弾が眼下の阿波連村落に降り注いだ。 しばらくすると、退却する日本兵らが山を駆け上がってきた。 およそ半時間、日本兵らは飛んで火に入る夏の虫とばかり、狙い撃ちにされた。 200人のジャップをやっつけたとだれかが言った。おれが見たのはせいぜい50人ほどだ。おれたちの損害は2,3人の戦死者と5,6人の負傷者だけだった。

 ※(注) これまでのいかなる戦記にも渡嘉敷の最南端の浜(ヒノクシ)にアメリカ軍が上陸したことは書かれていない。 ところが昨年筆者が渡嘉敷村の金城武徳さんから入手した「渡嘉敷第三戦隊の陣中日誌」に「三月二十七日…第一中隊は阿波連より撤収するも渡嘉志久峠の敵に阻止され、突破すること得ず東方山中に潜伏…」との記録を発見した。 第三戦隊はアメリカ軍が裏をかいて、渡嘉敷最南端から闇(やみ)を突いて上陸し、待ち伏せしたことを知らなかったのである。 

「山を下りて阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。 山を下りる途中、小川に出くわした。川は干上がり、広さ10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。

 

つづく


その時、慶良間で何が起きたのか 5

2013-03-29 09:30:06 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

今でもおれのまぶたの裏に焼き付いて離れないのは、あの若い母親の顔だ。 自分の腕の中で死んでいる子供を見つめる母親の目。 何てことだ。 殺すことなんてなかったんだ。

 民政班から、鉄条網で囲われた収容所を用意したので住民を村に連れ戻せ、との命令が下った。

 おれは90歳くらいのとても小柄な老女の襟(えり)首を掴(つか)んで、山道を下った。 その老女はひざまで届くジャケット(ちゃんちゃんこ)を着、黒いだぶだぶのズボン(もんぺ)をはいていた。

 途中、おれたちは日本兵の死体のそばを通った。 こいつは米袋を担いでいる際に撃ち殺されたらしい。 銃弾で袋が切り裂かれ、米粒が道路に散乱していた。 老女は俺の手を振りはらって、泣き喚(わめ)きながら米粒をかき集め始めた。 死体なんて全く眼中にない。

 村に着くと民政班は収容所に配給食糧のケースと飲み水の缶を積み上げ、住民のためのテント設営の最中だった。

 日本軍に虐待されたフィリピン住民はなんと言うだろう。 まさに雲泥の差の待遇だ。 おれたちはもう一度山に入り、日本兵を捜すことになった。

 山から見下ろすと、海岸線に野戦砲が設置され、ちょうど一マイル離れた島に砲弾を撃ち込んでいる。あの島が、明日、おれたちが上陸する渡嘉敷島だ。

 

-つづく


ランクアップのご協力お願いします。


沖縄 ブログランキングへ