ニューヨーク・タイムズ 1945年4月2日付 (訳:上原正稔)
小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。 軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。 まったく狂気の沙汰だ。 軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。
全部で70人の生存者がいて、みんな負傷していた。 その中に、2人の日本兵負傷者(※)がいた。 担架班が負傷者を海岸の救護施設まで移動させる途中、日本兵が洞窟から機関銃で撃ってきた。 師団の歩兵がその日本兵を追い払い、救護が続いた。 生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。 「鬼畜米英の手にかかるよりも自らの死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。 それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。
そして70人の生存者のうち、数人が一緒に食事している所に、日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵(※)に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵(※)を保護してやらねばならぬほどだった。 何とも哀れだったのは、自分の子供たちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から泣きくずれた。 自分の娘を殺した老人は、よその娘が生き残り、手厚い保護を受けている姿を目にし、咽(むせ)び泣いた。
また、別の島々でも同様な自殺、あるいは自殺未遂例があった。 慶留間島の洞窟では12人が絞殺されていた。 第77師団の歴戦の猛者たちも、このありさまをわが目で確かめるまで信じられなかった。 日本兵だけではなく、日本の住民まで“アメリカの野蛮人に捕まるぐらいなら死ぬ方がましだ”という信念で自殺する狂気の沙汰が実際に起ころうとは・・・。 集団自殺の現場を目撃し、日本兵の浴びせる機関銃の中をくぐり抜け、子供たちを助けたのが、ジョン・S・エバンス軍曹である。(1945年3月29日 アレクサンダー・ロバーツ伍長の談話より)
※筆者は1985年沖縄タイムスの「沖縄戦日誌」でこのニューヨーク・タイムズの伝える集団自殺の記事を初めて発表した。 “日本兵”も自殺現場にいたと思い込んでいたが、その後の調査研究で、“日本兵”とは実は防衛隊員であることが判明した。 ひとつの言葉の誤訳が事実を大きく歪めてしまったことを反省している。
3月29日の記事が4月2日に報道されたのは、4月1日の沖縄本島上陸作戦が始まるまで報道規制されたためである。
追記
「その時、慶良間で何が起きたのか」は2007年6月19日から琉球新報の「パンドラの箱を開ける時」第2話の「慶良間で何が起きたのか」で発表される予定だった最初の1週間分(5回)の原稿をそのままブログで発表することにしたものです。 読者も既にご存知のように、この原稿掲載を琉球新報社の前泊博盛、上間了、枝川健治、玻名城泰山(現編集長)の記者4人組が強制的に掲載拒否の暴挙に出て、上原正稔は那覇地方裁判所に訴えて裁判は継続中です。
しばらく休憩後、様々の資料を使って、赤松嘉次、梅澤裕両氏が自決命令を出していないことを完全証明し、お二人の長年の汚名を晴らすことにしたいと思います。