上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

沖縄をダメにした百人 30

2013-03-12 09:16:36 | 沖縄をダメにした百人

~1フィート運動騒動記~ 15

 「1フィート運動」は6か月間の準備期間を経て、1983年12月8日公式にスタートすることになった。 その発足について、翌日の琉球新報は次のように報道した。

 沖縄戦フィルムを平和教育に -「1フィート運動」スタート

「ひとり一フィートで沖縄を平和な島に」-。沖縄戦未公開フィルムを米国から取り寄せ、平和教育に役立てようという「沖縄戦記録フィルム一フィート運動」結成の集いが、八日夜、那覇市松尾の八汐荘ホールで開かれ、市民ら約八十人が新しい沖縄戦記録運動を通じた「ノーモア・沖縄」を誓い合った。
 同運動は、去る六月から糸満市在住の会社役員、上原正稔さん(三七)ら若い人たちの間で準備が進められてきたもので、約半年を経て県内外の多くの市民や文化人、学者、教育関係者などの共感と支持を得、太平洋戦争開戦記念日の同日、沖縄では全く新しい住民運動としてスタートした。

しかし、新聞は一切報道していないが、夕刻ぼくが八汐荘に着くと、怪文書が7,80人の参加者に手渡されている、と宮里千がぼくに忠告した。 それを臆面もなく、配っていたのが、あの悪魔の手先、神懸り屋こと上仮屋貞美だった。

 平和を叫ぶエセ文化人の特徴である長い「檄文」体で、一字も誤りがないことは何度も書いては直し、直しては書く「苦労」の後が歴然としていた。 その中で神懸り屋、いや上仮屋は「上原正稔氏にフィルム収集運動を委ねれば、戦争反対の映画を作るどころか戦争賛美の映画さえ作りかねない。」と高々と宣言していた。 だから「上原正稔を追い出せ」と勧告していたのだ。 そして、その日、集まったおエラ方の運営委員の誰もこの檄文を回収するどころか、福地曠昭は平然と配布に協力していたのだ

 1フィート運動の内なる敵が姿を見せ始めたが、その正体は実に恐るべき、というべきか、悲惨というべきか、人間が落ちる所まで落ちた「餓鬼」の地獄だった。先の見えない暗雲が垂れ込めていたが、ぼくはまだそこまで気付いていなかったのだ。


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