上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

その時、慶良間で何が起きたのか 5

2013-03-29 09:30:06 | その時、慶良間で何が起きたのか

前回の続き

 

今でもおれのまぶたの裏に焼き付いて離れないのは、あの若い母親の顔だ。 自分の腕の中で死んでいる子供を見つめる母親の目。 何てことだ。 殺すことなんてなかったんだ。

 民政班から、鉄条網で囲われた収容所を用意したので住民を村に連れ戻せ、との命令が下った。

 おれは90歳くらいのとても小柄な老女の襟(えり)首を掴(つか)んで、山道を下った。 その老女はひざまで届くジャケット(ちゃんちゃんこ)を着、黒いだぶだぶのズボン(もんぺ)をはいていた。

 途中、おれたちは日本兵の死体のそばを通った。 こいつは米袋を担いでいる際に撃ち殺されたらしい。 銃弾で袋が切り裂かれ、米粒が道路に散乱していた。 老女は俺の手を振りはらって、泣き喚(わめ)きながら米粒をかき集め始めた。 死体なんて全く眼中にない。

 村に着くと民政班は収容所に配給食糧のケースと飲み水の缶を積み上げ、住民のためのテント設営の最中だった。

 日本軍に虐待されたフィリピン住民はなんと言うだろう。 まさに雲泥の差の待遇だ。 おれたちはもう一度山に入り、日本兵を捜すことになった。

 山から見下ろすと、海岸線に野戦砲が設置され、ちょうど一マイル離れた島に砲弾を撃ち込んでいる。あの島が、明日、おれたちが上陸する渡嘉敷島だ。

 

-つづく


沖縄をダメにした百人 35

2013-03-29 09:25:59 | 沖縄をダメにした百人

~1フィート運動騒動記~ 20-1

 1フィート運動の身の毛もよだつ怪談を再開する前に、今、沖縄で何が起きているのか、整理しておこう。

 3月15日は1フィート運動が”刀折れ、矢尽きて”自決、いや解散を決行した日だ。 新聞、テレビは12月27日上原正稔が県庁記者クラブに乗り込み、その醜い内幕を暴露したが、1新聞を除き、真実を伝えるメディアはなかった。 その勇気ある新聞は”世界日報”だ。 3月17日の世界日報は”左翼が乗っ取り、創設の精神失う。 ─反戦反軍運動の温床にとの見出しで真実を伝えている。 その記事は伝える。 ─もともと1フィート運動の会の発起人は沖縄戦ドキュメンタリー作家の上原正稔だ。 1983年12月9日の琉球新報は「同年6月から糸満市在住の上原正稔さんら若い人たちの間で準備が進められてきたもので、約半年を経て県内外の多くの市民や文化人、学者、教育関係者などの共感と支持を得、太平洋戦争開戦記念日の同日、沖縄では全く新しい住民運動としてスタートした」と報じている。

狼魔人日記」に関連したことが載っています。

しかし、他の新聞は全て上原正稔という”沖縄でメディアにとって最も都合の悪い男”を完全無視し、嘘の報道を続けている。

 3月14日の沖縄タイムス社会面は84年5月16日の那覇市民会館ホールを埋め尽くす観衆の写真を大きく載せ、次のように報じた。 「歴史研究者有志が沖縄戦を考える会を結成した頃、”アメリカ公文書館に沖縄戦のフィルムがある”との情報が入り、『考える会』の真栄里泰山さん(68)は映像を有志で集めよう、と1フィートの会を83年に結成し、翌年フィルムが届き、初の上映会が開かれた、と語る。 当日は土砂降りだったが、会場の那覇市民会館は満員。」と報じているが、全て嘘だ。 この上映会については後日詳しく記すことにするが、ぼくが企画し、那覇市職員の宮里千里我謝幸男らが全面協力した結果であり、その時真栄里1フィート運動とは全く関係がなかったことを伝えておこう。 そしてその日は土砂降りではなかったことも伝えておく。

 さらに、3月16日の琉球新報は”平和の火絶やさず ─若い世代に受け継いで”の見出しの下に「1983年の会発足後、初の上映で映像解説をした理事の真栄里泰山さんは”集まった人は皆、肉親を捜そうと必死に映像を見ていた。あの光景は何と表現していいか分からない”と振り返る」と報じている。

全く何と表現していいか分からない、虚偽報道だ。

 -つづく


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