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よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

12月31日(土)の聖言

2016年12月31日 | Weblog

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」ピリピ4:19

 一年を振り返ると、飢えることもなく、有り余ることもなく、全てが満たされたことを深く感じます。神様は私達の必要を全てご存知です。祈りと願いにこたえて、日々養いはぐくんでくださいました。得たものを「与えられた」と感謝するとき、喜ぶことが出来ます。新しい年も全てを満たしてくださる主に信頼して、思い煩うことなく喜び感謝して生きようではありませんか。(KE)


12月30日(金)の聖言

2016年12月30日 | Weblog

「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。」創世記28:16

 イエス様が神の位を捨てて人の世に下ってこられたのは、神様が人と共に住んでくださるためであります。「インマヌエル」とは神われらと共にいますとの意味ですが、今、私達はその恵みをいただいているのです。目の前の現実は、どこに神様が居られるのかと疑われますが、心を低くして魂の目を開いて見るとき、ヤコブのように、荒野が天の門となります。共におられる主を見失わないように!(KE)

画像は「http://sanbika.net/」さんより


12月29日(木)の聖言

2016年12月29日 | Weblog

「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」イザヤ43:4

 人の値打ちは業績や成果によるのではなく、その人自身に与えられた価値によるのです。造り主である神様は、人をご自分のかたちに象ってつくり、どんなものにも代えがたいものとして愛しておられます。あなたの値打ちは、独り子イエス様の命に値するものです。それほど大切にしてくださる方が、あなたを粗末にするはずはありません。(KE)


12月27日(火)の聖言

2016年12月27日 | Weblog

「主は言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる』。」ヨナ4:10

 神様は預言者ヨナをニネベの町に遣わしました。ヨナの働きによって、町の人々は悔改めて主の道に立ち返ったのです。神様は彼らを憐れみ、許してくださいましたが、ヨナは納得しません。神様は「とうごま」の木を用いて、みこころを教えました。神様はすべての人が悔改めて救われることを願っています。決して、滅ぼすことが本意ではありません。今日も神様はあなたを惜しんでおられます。(KE)


12月26日(月)の聖言

2016年12月26日 | Weblog

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」ヤコブ1:5

 神様は求める者に惜しんだり、ケチったりする方ではありません。それどころか、必要なものを満たすばかりか、溢れるばかりにゆすり入れてくださいます。そのためには、疑わないで信じて求めなければ得られません。神様は出来ないことのない方です。信じて、人にではなく、主に期待しましょう。(KE)


12月25日(日)の聖言

2016年12月25日 | Weblog

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」ルカ2:11

 世には多くの悩みや苦しみ、悲しみ絶望があります。四苦八苦(4×9+8×9)百八の煩悩があると世間でも言います。しかし、ただ目先の問題を処理するだけでは救いにはなりません。「救主」とは勿論私達を救ってくださるとのことです。救われなければならない根本は、諸悪の根源である神様との断絶を回復することです。そのためにイエス様は私達のところへ来てくださったのです。(KE)


12月24日(土)の聖言

2016年12月24日 | Weblog

「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」ルカ1:49a

 マリヤにとって人生をひっくり返すような出来事に出会ったのですが、そのことを不幸な災難と嘆かず、生涯最高の喜びと告白しました。なぜこれほどまでに喜ぶことが出来たのでしょうか。それは神様がしてくださったと確信し、神様が自分のような者に目を留めてくださったと信じたからです。しかも、神様は最善最高のことをしてくださるとの絶大な信頼があるからです。私達が嘆き悲しむのは神様へのマリヤのような姿勢がないからです。(KE)


12月23日(金)の聖言

2016年12月23日 | Weblog

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」 詩篇119:71

 苦しみにあうことはいやなことです。なんとか避けたいと願います。それは苦しみにあうことで、人生の貴重な時間を無駄にすると思うからです。しかし、マイナスと思えることでも、振り返って、それがプラスだったと言えるなら、『無駄』であるどころか、これほどの幸いはないでしょう。マイナスをプラスに変えるのは神様を認めてへりくだり、神様の限りない愛に信頼することです。(KE)


12月22日(木)の聖言

2016年12月22日 | Weblog

「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd

 十字架にかかられるとき、弟子達は皆主から離れていきました。それを知っておられた主は、前もって弟子達に語られたのです。弟子達も主を捨てようとは思わなかったでしょうが、主と共に十字架を負うことを躊躇しました。私達も願いながら、できないことがあります。だから、人を頼み、期待すると、裏切られた思いになります。主に倣って、人にではなく共にいてくださる神様に固く信頼して立ちましょう。(KE)

Phot by 輝子さん


12月21日(水)の聖言

2016年12月21日 | Weblog

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」ヘブル11:8

 信仰の父と言われるアブラハムですが、彼は神様の言葉を信じて従いました。それによって信仰を明らかにしたのです。「行き先を知らない」とは、結果がどうなるかを考えないことです。みことばは目の前の現実とはかけ離れて、どのようになるのか見当がつかないことがあります。しかし、結果がどうであろうと、まず神様の言葉を信頼し従うこと、これが信仰です。(KE)


12月20日(火)の聖言

2016年12月20日 | Weblog

「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」ルカ13:8

 ぶどう園の一角にイチジクの木を植えていた主人は、それが実らないために切り倒すよう命じました。主人の意図はイチジクの実を得たいからで、観賞用ではありません。これは神様の前にある私達のことです。主人である神様の目的にかなわなければ切り倒されて当然です。しかし、今日も、イエス様のとりなしによって、赦され生かされています。主のみこころに従いましょう。(KE)


12月19日(月)の聖言

2016年12月19日 | Weblog

「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。」詩篇27:4

 神様に祈り求めることは沢山ありますが、一つだけ選ぶなら何を求めますか。神様のみそば近くに、常にとどまる事はまことに幸いなことです。神様はすべてのものの根源であり、乏しいことなく、すべてを豊かに満たす方です。主とともに生活して、主の恵みをいただくために、主と共に生きることを努めましょう。(KE)


12月18日(日)の聖言

2016年12月18日 | Weblog

「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです。」詩篇119:147

 朝、目覚めたとき、最初に何を心に思い浮かべるでしょうか。それによって、一日が決まります。この言葉のように、神様を思い、神様への語りかけ、祈りが一日の始まりとなるなら、これに勝る幸いはありません。また、私達の「望み」はどこからくるでしょうか。見える状態、聞くおとずれなどに望みをかけるなら、失望しかありません。しかし、神様の言葉によって望みを持つなら、決して失望に終わることはありません。(KE)

画像は 「さんびかnet 」さんより


12月16日(金)の聖言

2016年12月16日 | Weblog

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」ルカ19:10

 今年もまたイエス様の御降誕を記念し、感謝するときとなりました。主は神様と等しい方ですが、神の位を捨てて、人となり、世にきてくださいました。その目的は「失われたもの」を救うためです。「失われたもの」とはあなたのこと。神様に造られながら、造り主を忘れ、自分自身を義なる王としてサタンの支配に囚われたものでした。あなたを捜し求め、命をすてて、神様の所有としてくださいました。この絶大な恵みを心から感謝しましょう。(KE)


12月14日(水)の聖言

2016年12月14日 | Weblog

「『家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい』。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。」ルカ8:39

 福音を「あかし」するとはこのことです。神様が「どんなに大きなことをしてくださったか」、それを語らないではおれません。今年も残り僅かになり、振り返ると事の多い年でした。その全ては神様が備え導き恵んでくだったものです。自分の知恵、知識、力を超えた神様の業を大いに語ろうではありませんか。(KE)

in pari  Web より


十字架のイエス・キリスト

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