よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

4月30日(日)の聖言

2017年04月30日 | Weblog

「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17:10

 人は外見やうわべの様子で他人を知る以外に方法がありません。まして、その人の心がどんなであるかは分かりません。しかし、神様は心を探り、思いを知り尽くしています。ただ知っているだけでなく、その心と思いの結果について報われるのです。その意味で、神様は怖い方であり、侮るべきものではありません。神様の賞賛と報いを期待する歩みをしましょう。(KE)

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4月29日(土)の聖言

2017年04月30日 | Weblog

「ダビデはミカルに言った、『あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう』。」サムエル下6:21

 ダビデ王は久しく奪われていた神の箱(契約の箱)をダビデの町に迎えました。彼は嬉しくて王の立場も忘れて箱の前で踊りました。今あるのは神様のただ恵みと憐れみによることを思って、恥も外聞もかなぐり捨てて主に感謝せずにいられなかったのです。私達はこれほどの感謝を主に奉げているでしょうか。(KE)

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4月28日(金)の聖言

2017年04月28日 | Weblog

「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。」詩篇146:3-4

 朝顔が支柱を頼りに伸びていくように、人は必ず何かにすがらなければ立てません。神様はご自分を頼らなければ生きられないように人を造られたのです。ところが、人は頼りにならないものを頼るようになって、神様から離れました。その結末は「滅びる」だけです。あなたが今信頼しているものは何でしょうか。(KE)

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4月27日(木)の聖言

2017年04月28日 | Weblog

「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」マタイ24:36

 世の終りの時がいつであるか、弟子たちの問いに答えた言葉です。各地でテロや地震によって多数の死傷者がでます。聞くたびに自分でなくて良かったと思いがちです。終りのときは全ての人に平等です。それは必ず来ます。ただ、遅いか早いかその時はわかりません。いつ、どのような事が起っても大丈夫と言える様に備えてください。主は「目をさましていなさい」と警告しています。(KE)

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4月26日(水)の聖言

2017年04月26日 | Weblog

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17b

 私たちの信じる神様はどのような方でしょうか。ひ弱で、力のない、人の手を借りなければ何も出来ないものだったら、信じる値打ちがありません。死人を生かし、何もないところから造り出すことの出来る方、全能の神だから信じる価値があるのです。イエス様の誕生も、ご復活も、神様のなさることだから、疑う余地はありません。私たちの思いのなかで「神様のなさることだから」と控えるところを置いておきましょう。(KE)  

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4月25日(火)の聖言

2017年04月25日 | Weblog

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24

 日本には各地に神社仏閣があります。そこは神仏の宿るところとして大切にされていますが、本来、神なる方は人の手で造られたものなど必要ありません。この言葉に続いて、「また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない」とあります。神様はご自身で完結充足した存在です。神様が私たちを求めてくださるのはただ憐れみによるのです。(KE)

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4月24日(月)の聖言

2017年04月24日 | Weblog

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』。」ヨハネ8:12

 昔、ギリシャのある哲人は日中ランプを灯して、「暗い、暗い」と言いながら町中を歩き回ったとのこと。彼は日の光があっても人心は暗く世は闇だと語ったのでしょう。勿論、ランプではどうにもなりません。イエス様こそが「世の光」です。現代は彼の時代よりももっと漆黒の闇の中です。イエス様のみことばに従って光の中を歩いてください。(KE)

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4月21日(金)の聖言

2017年04月21日 | Weblog

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15

 最新の医療設備があり、最新の居住区間に住み、栄養管理された食事をして、物質的には全く不自由のない生活が出来ても、それが命ではありません。では、何が命なのでしょうか。創世記には「命の息」を吹きいれられて生きるものとなったとあります。まさに、神様の命を頂く以外に生きることが出来ないのです。(KE)
 

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4月20日(木)の聖言

2017年04月20日 | Weblog

「また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。」イザヤ58:9a

 幼い子供は親の存在を絶えず確かめようとします。ちょっとでも顔が見えないと不安になって泣き出します。その声を聞くと、親はすぐに答えます。神様もまるで子供の親のように、私たちの叫ぶ声を聞いて答えてくださいます。子供が安心するのは親の存在を確信するからです。どのような問題・悩みにあっても、神様がいらっしゃることを知れば、これにまさる平安はありません。(KE)

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4月19日(水)の聖言

2017年04月19日 | Weblog

「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」詩篇141:3

 「口は災いの元」とも世間で言われますが、言葉の上での失敗は数多くあります。感情に任せ、思いのままに語る言葉で人を傷つけ、怒りを引き起こします。その意味で言葉は力です。一方、寡黙で口数少ない人は奥ゆかしく見えますが、何を思っているのか分かりません。小さな口ひとつ自分ではいかんともしがたいもの。みことばのように祈りつつ主に守っていただくほかありません。(KE)

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4月18日(火)の聖言

2017年04月19日 | Weblog

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」ピリピ4:4

 現実の生活を見ると、不安や心配、恐れがあって「喜ぶ」ことができません。事情や境遇によって喜ぼうとする限り、喜べないのは確かです。しかし、ここでは「主にあって」と言われています。「主にあって」とはイエス様を通して物事を見るのです。神様が私たちに注いでくださった限りない愛の証であるイエス様の目線に立って見てください。恐れは消え、不安や心配は祈りと望みに変わります。(KE)

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4月17日(月)の聖言

2017年04月17日 | Weblog

「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10

 死を打ち破って新しい命に生きるためには、イエス様と一緒に十字架に死ななければ甦ることができません。パウロは常に「キリストと共に十字架につけられた」と告白しました。それはキリストが自分を生かしておられるとの告白でもあります。私たちも、よみがえりの命に生かされるために、「イエスの死」に自分を重ねましょう。キリストの新しい命を体験できます。(KE)

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4月16日(日)の聖言

2017年04月16日 | Weblog

「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」マタイ28:6

 イースター、おめでとうございます。主はよみがえられたのです。それは死の砦、墓を貫いてその先へ続く道を開いてくださったことです。死はすべてのものを飲み込む暗黒のブラックホールでなく、新しい命への入り口となったのです。蘇られたイエス様とともに生きるなら、体の死はもはや何の力もありません。死を超えた望みに生きてください。(KE)

画像は「賛美歌net」さんより

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4月15日(土)の聖言

2017年04月15日 | Weblog

「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」イザヤ35:3

 「弱った手」、「よろめくひざ」とは祈りが途絶え信仰が萎えた様子を語った言葉です。昔、立って手を上げて祈りました。そのため疲れて手が下がり、ひざがよろめいたのです。今はそのような姿勢で祈ることはありません。しかし、信仰が弱って祈りが少なくなり、周囲の状況に振り回され、恐れたり不安になったりします。まさに手が弱り、ひざがよろめいたときです。そのようなとき、状況を変えることより信仰を新しくすることです。(KE)

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4月14日(金)の聖言

2017年04月14日 | Weblog

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3

 「求めよ」と言われる方はどなたでしょうか。力も知恵もない方であれば求めても役に立ちません。しかし、ここで言われる方は万物の創造者、全てのものの根源であり主である方です。こんな嬉しい話はありません。自分では手に負えない問題や事態に遭遇すると、つい人を頼ろうとします。それでは本当の解決になりません。遠慮せず、主を呼び求めようではありませんか。(KE)

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十字架のイエス・キリスト

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