「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」伝道11:6
人は何事も結果を想定して事にかかろうとします。物事によっては正確に結果を予測できますが、人生は必ずしもそのようにはなりません。結果を出されるのは神様です。ですから、結果を考えず、今するべき事を悔いのないように力を尽し、あとは神様のなされるわざを待ち望みましょう。(KE)
「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」伝道11:6
人は何事も結果を想定して事にかかろうとします。物事によっては正確に結果を予測できますが、人生は必ずしもそのようにはなりません。結果を出されるのは神様です。ですから、結果を考えず、今するべき事を悔いのないように力を尽し、あとは神様のなされるわざを待ち望みましょう。(KE)
「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10
地上にある旅路は苦しみの連続と言われます。世間でも四苦八苦(四九36+八九72=108)、百八の悩みに生きると言います。しかし、キリストに生きる生涯は、「しばらくの苦しみ」によって、「永遠の栄光」にふさわしく、清め、整え、揺るぐことのない信仰を与えてくださいます。決して苦しみだけで終わりません。(KE)
「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」ルカ6:46
口先だけで相手をあしらうほど失礼なことはありません。「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃない」などと、世間でも言います。「先生」と口では言いながら、尊ぶことをせず、教えに従わないどころか、内心馬鹿にしていることが多いからでしょう。同様に、神様を信じていると言いながら、信頼しようとしなければ、軽んじて馬鹿にしているのです。それでは神様から祝福を受けることはできません。(KE)
by 輝子さん
「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」 歴下26:16
一人の王様の致命的な失敗について語った一節です。事情・境遇に恵まれ、なにも心配がなくなり、安泰だと思ったとき、人は高慢になり、神様にむかって罪を犯すようになります。昔も今も変わりません。恵まれたならば、いよいよ心謙って、主に感謝しようではありませんか。(KE)
by 輝子さん
「心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。かならず後のよい報いがあって、あなたの望みは、すたらない。」箴言23:17-18
世の中には、正道もあれば、邪道もあり、表があれば、裏もあるなどと言います。自分が悪いと思うことを人が堂々とやっているのを見ると、では自分もやってやれと思いがちです。しかし、それは神様を知らない、恐れない事態です。たとえ馬鹿正直と言われようと、主を恐れて正道を歩んで下さい。必ず主が報われます。(KE)
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」マタイ10:34
なかなか勇ましく、物騒なイエス様の言葉です。和をもって尊しとする日本人には馴染まない気がしますが、真理に立ち、信念を堅持するには、このくらいの気迫と決断が必要です。確かに、イエス様は優しいばかりの、真綿で包む愛の人ではありません。イエス様を信じて生きるとき、このような対立と決別を覚悟しなければ、主に出会うことが出来ません。(KE)
「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」第一ペテロ5:7
物事を頼む時、相手を間違えるととんでもない事になります。ですから、相手を慎重に選ばねばなりませんが、神様を頼みとするなら、これほどの安心はありません。しかも、神様はあなたに目をとめ、助けようと備えておられます。あなたが思い煩ったからとて何ができるでしょうか。今日も、悩まないで、主にゆだねて導きに従いましょう。(KE)
by 輝子さん
「悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。」第一ペテロ2:20
悪いことをして、罰を受けるのは当然の報いです。しかし、世の中は不公平で、必ずしもそのようにはなりません。時には、誤解・曲解を受け、根も葉もないことで中傷され、悲憤慷慨することがあります。その時こそ、信仰の真価が問われます。報いて下さる神様を信じましょう。(KE)
by 輝子さん
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」 ガラテヤ6:7
聖書に語られる神様は、石や木で造った神様ではありません。人の目には見えませんが、必ず結果を出されるかたです。神様を尊び、敬い、心から信頼するなら、公平な方ですからそれにふさわしく報いて下さいますが、反対に、侮り、軽んじ、無き者のごとく振る舞うなら、そのように取扱なさるのです。良き実を望んで、力を尽くそうではありませんか。(KE)
「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」詩篇130:5
万策尽き、見えるところでの望みは消え、絶望の淵にあっても、神様に期待し、みことばによって望みが得られるのは何と幸いなことでしょうか。あなたの口から、嘆きやつぶやきが漏れ出る時、それらの言葉に、「しかし」と続けて、この聖言を自分に語って下さい。神様は驚くことを始めて下さいます。主が事を起こされるまで、信じて待ち望みましょう。(KE)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」第一テサロニケ5:16-18
神様が私達に願っておられることは、実に単純にして、簡単なことですが、実行するとなると大変難しいことです。大きな、難しい事業や慈善を求められているのではありません。神様のご愛を信じて、「喜び」「祈り」「感謝」することを努めようではありませんか。(KE)
「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」イザヤ51:1
「初心忘るべからず」といわれますが、確かに何事でも、時が経つと初めのときの感謝感激を忘れてしまうものです。今日も、神様の恵みによって生かされていながら、感謝できない、喜べないとつぶやいたり、嘆いているのではないでしょうか。かつて、自分がどんなものであったかを思い出して、欠けていること、不足していることをあげつらうのではなく、与えられている恵みを感謝しましょう。(KE)
「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる』と。」詩篇96:10
現在の世界情勢、また国内の様々な状況を見ると、確固とした中心が失われて、混沌と無秩序の中に漂っているようです。私達の心も同様に定めなく、上下左右に揺れ動いて落ち着きません。しかし、イエス様は王として世に来て下さいました。この方に「私の王」となって頂こうではありませんか。平和と秩序を取り戻すことができます。(KE)
「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」マタイ7:11
幼子は、ある時期、親のするままに委ねて過ごします。親を全く信頼しているからです。相手が自分に必ず良いことをしてくれると信じること、また、してくれたことが、どんな事であっても、“良し”とすることが信頼です。神様に対して、そのような信頼をもつことは、なんと幸いなことでしょう。今日も、神様はわたしに一番良いことをしてくださると信じて、喜ぼうではありませんか。(KE)