よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

10月1日(月)の聖言

2007年09月30日 | Weblog
「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、
それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、
主の言葉を聞くことのききんである』。」アモス8:11 

ノアの箱舟も、全ての生き物が乗り込んだ後、後から扉が閉ざされました。
花婿を迎えに出た乙女たちは油を買いに出た間に、婚宴の戸が閉められました。
全てに「とき」があります。主のことばを聞くときは、いつまで許されるのでしょうか。
今日で終わるかもしれません。あるいは明日でしょうか?

今、主の言葉を聞いてください。

(榎本和義牧師)
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9月30日(日)の聖言

2007年09月30日 | Weblog
「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。
あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。
そのまことは大盾、また小盾である。」詩篇91:4 

猛暑の夏もなんとか過ぎて、気がつけば九月も終わりになりました。
それぞれに事の多い夏だったことでしょう。
しかし、その中で、神様の愛の「羽」におおわれ、
その翼に避け所を得させていただきました。

私達は身勝手で、神様を利用しているような不埒な者ですが、
神様は信頼する者に、真実に答えてくださいました。
心からの感謝を捧げて前進しましょう。

(榎本和義牧師)
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9月29日(土)の聖言

2007年09月29日 | Weblog

「すべてのことは、わたしに許されている。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
すべてのことは、わたしに許されている。
しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」Ⅰコリント6:12 

人は何かに囚われて身動きできなくなります。
「ねばならない」「べきである」などと思うとき、
その考えに縛られ、囚われた状態です。それは苦痛であり、喜びがありません。

イエス様を信じて生きるとき、すべてのことが「許されて」います。
ただ、主の愛に促され、感動して、自発の意思に従うのみです。

(榎本和義牧師)
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9月28日(金)の聖言

2007年09月28日 | Weblog

「あなたがたは弱った手を強くし、
よろめくひざを健やかにせよ。」イザヤ35:3 

昔、祈るとき、立ったままで、天に向け両腕を伸ばして祈りました。
手が弱る、ひざがよろめくとは、祈りが欠けて信仰が揺れ動く状態です。

現実の問題や課題を目にするとき、思わず信仰がなえてしまいます。
また、祈っても、祈っても、事がすすまない時、諦めようとします。
そうなると、信仰を失い、いよいよ望みのない、惨めな境遇に落ちてしまう。

み言葉のように、自分の信仰を硬くして、主に向かい手を上げつづけましょう。

(榎本和義牧師)
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9月27日(木)の聖言

2007年09月27日 | Weblog
「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。」詩篇94:19 

悲しみや心配事を一人で抱えて、思い悩むのは大変キツイことです。
誰かに打ち明けると、幾分かは心が軽くなります。

しかし、どんなに言葉をつくしても、伝わりません。
また、事柄によっては、誰にも言えないときがあります。
実は、そういうときこそ、助けが必要なのです。

神様はあなたの思いを聞いて下る方、心を全て知って下さる方です。
神様から来る力、慰めに勝るものはありません。

(榎本和義牧師)
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9月26日(水)の聖言

2007年09月26日 | Weblog

「したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。
子である以上、また神による相続人である。」ガラテヤ4:7 

イエス様を信じて、神様の救いを受けた者を、「神の子」としてくださいます。
それはまた、神様が「お父さん」になってくださることです。
同時に、お父さんの資産を受け継ぐ資格が与えられることでもあります。

なんと素晴らしい身分でしょうか。子供は、親の元にいるとき、
安心していますが、離れると不安になり、心配になります。
どんなときでも、父なる神様のもとに留まりましょう。

(榎本和義牧師)
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9月25日(火)の聖言

2007年09月25日 | Weblog
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」使徒17:28

 世の中にはいろんな物が存在していますが、
多くは自分とかかわりの無い存在です。
神様も同様に、いらっしゃるとしても自分には関係ないと言うなら、
神様が存在しないのと同じです。

神様を信じるとは、今生きている自分自身がまさに
神様のアリバイ(存在証明)であると認めることです。

あなたの人生の始まりから、今に至るまでの生涯、またその終わりまで、
神様がいますゆえであることを信じる。これが神様を信じることです。

(榎本和義牧師)
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9月24日(月)の聖言

2007年09月24日 | Weblog
「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。
あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。
地はあなたの造られたもので満ちている。」詩篇104:24 

周囲を見ると、これが神様のわざだろうかと疑いたくなる現実があります。
しかし、聖書は神様の造られたもので満ちていると宣言しています。
目の前の現実がどうであれ、主が言われるように、
「知恵をもって造られた」ものと信じることが私たちの信仰です。

主のみわざによって、今日も生かされ、さまざまなことのなかに、
置かれていることを感謝しましょう。

(榎本和義牧師)
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9月23日(日)の聖言

2007年09月23日 | Weblog
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。」
Ⅱコリント3:17 

人は、気がつかないうちに、有形無形、様々なものに縛られ、
囚われて生きています。

普段の生活では不自由を覚えませんが、何か尋常でないことに出会うと、
自由でないことに気づきます。殊に、厄介なのは自分の心です。

意固地になったり、へつらったり、恐れたり、怒ったりします。
しかし、イエス様を信じて、自分も十字架に死んだものとなり、
主の霊にのみ従って生きるとき、何もにも支配されず、囚われず、自由です。

(榎本和義牧師)
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9月22日(土)の聖言

2007年09月22日 | Weblog
「あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、
試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」
Ⅰコリント10:13

 神様は私たちを清くし、鍛え、みこころに適う者にしようされます。
そのために、さまざまな試練を通して造り変えられます。
しかし、神様は私たちの全てを知り尽くしているから、能力以上の要求はしません。

弱く、小さく、足らないだらけであることも知っています。
主が備えられた試練を真っ向から受けて、鍛えられ、変えられたいものです。

(榎本和義牧師)
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9月21日(金)の聖言

2007年09月21日 | Weblog
「夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。
町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、
主にむかって両手をあげよ。」哀歌2:19

 イエス様は、私たちが滅びないように、
父なる神様にいつも執り成していてくださいます。
それによって、赦され生かされています。

私たちの周囲には悩み、苦しみに虐げられた人々がいます。
自分はなにも出来なくても、そのような人達のために、
神様の憐れみと助けを祈ってあげることが出来ます。
これはあなたの大きな特権です。

(榎本和義牧師)
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9月20日(木)の聖言

2007年09月20日 | Weblog
「わが魂はもだしてただ神を待つ。わが救いは神から来る。」詩篇62:1

悩みや苦しみに遇うとき、なんとか逃れようと呻いたり、叫んだり、
走り回って手近な助けを得ようとします。
その気持はわかりますが、その助けは本当の救いにはなりません。

神様を信頼し、救いを得るには「もだして」「ただ神を」「待つ」」ことです。
人の同情を求めたり、八つ当たりしないで、神様の働かれるときを黙って待つ。
そのためには忍耐が必要です。主はそこまで信頼する者に、
驚くべき救いをもって、答えてくださいます。

(榎本和義牧師)
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9月19日(水)の聖言

2007年09月19日 | Weblog
「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、
いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」
コロサイ3:17

「名によって」するとは、その名の人の名 代、代理者となることです。
イエス様の名でするとき、誰がしようと、主がなさったことになります。
そうなると、自分の行動、思いが、主の名を汚すものばかりで、
恥ずかしくなります。

ことの大小をを問わず、全てのことをイエス様の名によって
するように努めるとき、あなたの人生は変ります。

(榎本和義牧師)
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9月18日(火)の聖言

2007年09月18日 | Weblog
「さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、
『あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、
なお多く残っている』。」ヨシュア13:1 

神の民がカナンの地を勝ち取って、大事業がほぼ完成したとき、
神様が指導者ヨシュアに語った言葉です。
現役を引退して、静かな余生を送る時期だったでしょう。

しかし、神様はなお彼に期待しました。「まだこれから!」と、
ため息が出ることでしょうが、主はその使命を全うするまで、
永遠の安息を与えられません。
彼一人ではなく、神様が共に働かれるからです。

(榎本和義牧師)
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9月17日(月)の聖言

2007年09月17日 | Weblog
「岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、
根が無いので、しばらくは信じていても、試練の時が来ると、
信仰を捨てる人のことである。」ルカ8:13 

イエス様が種まきの譬えで信仰者の姿を語っています。大切なのは、
種は同じものですが、それを受ける側の状態によって結果が変ることです。
試練や世の心遣いに妨げられると、信仰を失う人がいます。

よく耕された地のように、しっかりと命の種、み言葉をうけとめ、
多くの実を結ぶ者となりましょう。

(榎本和義牧師)
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十字架のイエス・キリスト

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