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よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

10月31日(月)の聖言

2016年10月31日 | Weblog

「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。」詩篇27:14

 「待ち望む」とは「期待する」「信頼する」ことです。人は周囲の状況や、人、物事を見たり聞いたりして、期待をいだき望みを持ち、安心しようとします。しかし、それらは時々刻々変化し消えていきます。その度に浮いたり沈んだり定まりません。目に見える頼るべき物がなくなるとき、人は真剣に神様を求め、神様以外に望みがなくなります。その時を神様は待っています。主に期待し、望みを持ち、大胆に生きようではありませんか。(KE)


10月30日(日)の聖言

2016年10月31日 | Weblog

「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神の来る人々を、いつも救うことができるのである。」ヘブル7:25

 イエス様は祝福の大祭司として立てられた方です。よみがえられた後、天に帰り、父なる神様の右に座して、今日も祭司としてのつとめを果たしてくださいます。「彼によって」神様に近づく者をとりなしてくださるゆえ、救われるのです。神様はイエス様のとりなしを決して拒むことはありません。だから、確信をもってどんなことでも遠慮なく主に申し上げましょう。(KE)


10月29日(土)の聖言

2016年10月29日 | Weblog

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」第一テモテ6:12

 信仰に生きる生涯はある意味で波乱に富んだものです。神様を知らなければ平気で過ごしたことも、信仰のゆえに葛藤が生まれ、戦いが生じます。みことばの光に照らされ、白黒を際立たせられます。まさに信仰の戦いです。常に神様の側に立ち続けるのは容易なことではありませんが、主に寄り頼んで勝利しようではありませんか。(KE)

Photo by 輝子さん


10月28日(金)の聖言

2016年10月28日 | Weblog

「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」ヘブル4:12

 聖書の言葉は特殊な言語ではなく平易な日本語ですが、新聞や小説などの世間一般の言葉とは異なっています。それは時代を超えて多くの人々に霊感を与えて語らせたものだからです。聖書を読むと、神様の霊が心に働きかけ、喜び、平安、望み、力を与え、また心の罪、穢れ、闇などを照らし出します。(KE)

Photo by 輝子さん


10月27日(木)の聖言

2016年10月27日 | Weblog

「神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」ダニエル2:21

 神様の力の大きさ、その広大無辺の広がりなど、人には到底想像しがたいものです。神様は悠久の時間のなかに存在して大なるものから極小なものにいたるまで、全てを余すところなく支配している方です。ともすると、人は高慢になり、自分の知恵や知識を誇り、業績や成果を誇示しますが、神様からご覧になるとまことに噴飯ものです。全てが神様のものですから。(KE)

Photo by 輝子さん


10月26日(水)の聖言

2016年10月26日 | Weblog

「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ5:17

 「愚かな者」とは神様を恐れない者、自分の意のままに生きようとすることです。その結果が今見ている現実の悲惨な姿です。しかし、造り主である神様は造られた者がその意図にしたがって生きることを願っています。そうでなければ造られた目的に適わないからです。各自に備えられた創造者の目的や意図を知るには神様から教えられなければ知ることが出来ません。事毎に祈りつつ御旨を求めましょう。(KE)

Photo by 輝子さん


10月25日(火)の聖言

2016年10月25日 | Weblog

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

 いつも俯き加減で歩いているためか、上を見ることがありません。それは体の姿勢の問題ばかりではなく、心のありようでもあります。心が下向くとき、すべてが悲観的になり、暗くなり、望みがありません。顔を上に向けるばかりではなく、心が上にある神様に向くとき、小さなことにこだわって思い煩っている自分から解放されます。青空を流れ行く雲、遥かな山並みなどを眺めて、創造者なる神様に思いを巡らせ、力を受けましょう。(KE)

by 輝子さん


10月24日(月)の聖言

2016年10月24日 | Weblog

「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。」第二コリント2:15

 街を散歩しているとどこからともなく木犀の香りが漂ってきて、秋本番を迎えたことを実感します。においは嗅ぐ人の趣向をはっきりさせます。同じ香りでも人によって好き嫌いが分かれます。神様はわたしたちを香り豊かな花々として造り替え、いわずかたらずのうちにキリストを香らせてくださるのです。その香りは人々に救いと滅び、いのちと死を明確に識別させるのです。(KE)


10月23日(日)の聖言

2016年10月23日 | Weblog

「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。」ヤコブ5:15

 現代は医療技術の向上に伴って、病気は医者や「くすり」によって癒されると思われています。しかし、病気を与えそれを癒すのは人のわざではなく、神様の力です。どんな名医でも特効薬でも、主がいやしてくださらなければ役に立ちません。また、主がなさるなら癒されない病はありません。主の憐れみを求めて祈りましょう。(KE)


10月22日(土)の聖言

2016年10月22日 | Weblog

「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。」ローマ4:19

 信仰の父、アブラハムについて語られた言葉です。目の前の現実を見ると神様の約束など信じられません。どこに「神は愛である」と言えるだろうかと思われます。しかし、彼はひたすらに神様の言葉を信じたのです。しかも、見ざる聞かざるではなく、しっかりと自分の状態を見ながら、神様に信頼したのです。ここに信仰の真髄があります。(KE)


10月21日(金)の聖言

2016年10月21日 | Weblog

「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。」マルコ14:38

 私達はまことに弱い者で、ちょっとした誘惑にも負けてしまいます。してはいけないと思いつつもやってしまう。こうしようと思っても出来ない。心に思うことと実際がバラバラになるのです。そのため、いつも失望しあきらめますが、誘惑に打ち勝つ道があります。「目をさまして」祈ることです。自分の弱さをしっかり自覚して神様からの力を求めて祈るとき、誘惑に打ち勝つことができます。(KE)


10月19日(水)の聖言

2016年10月19日 | Weblog

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」マタイ24:35

 めっきり涼しくなり、木々も色づきはじめて、秋の色が深まってきました。あの暑かった夏が夢の如く思われます。時の移り変わりは着実に動いています。ひと時として同じ状態にとどまることはありません。この世の営みは水の流れの如く流転して変化します。その中で、決して変らないものは聖書の言葉、イエス様のみことばです。不安定で不確実な世にあって、みことばに信頼できるのは大きな喜びです。(KE)


10月18日(火)の聖言

2016年10月18日 | Weblog

「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。」ヘブル2:1

 信仰生活の難しさは聖書の言葉を通して見えない神様を信じることにあります。現実は圧倒的な力で信仰を揺さぶってきます。ともするとそれに負けそうになり、信仰が揺らぐことはしばしばです。そのような弱さを自覚して、信仰の戦いを勇敢に戦わなければ消え去ってしまうでしょう。みことばのように聖書を通して語られることをしっかり握って立ちましょう。(KE)


10月17日(月)の聖言

2016年10月17日 | Weblog

「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。」詩篇39:4

 人は悟りの鈍いものです。終りのときがあること(人生以外にも)を知りながら、なかなか実感とならない。いつまでも今のままだと錯覚しています。しかし、こればかりは人の力でどうすることもできません。神様によって終りの日数を悟らせていただく以外にない。近づきつつある終りを知らないで今を生きるのは宙に浮いているようなものです。(KE)


10月16日(日)の聖言

2016年10月16日 | Weblog

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19

 「汝自身を知れ」と哲学者は言います。自分を知らなければ地に足を置いた生き方が出来ません。しかし、人は自分を知っているようで実は何も知りません。自分を知ろうと努めないからです。神様はいろんな問題や悩みを与えてあなたがどんな自分であるかを教えようとされます。試練を通して自分の罪を知り、悔い改めに導かれ、赤裸々な自分に出会うことがすべての始まりです。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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