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よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

2月29日(水)の聖言

2012年02月29日 | Weblog
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28 

イエス様は世の終りまで共にいると約束しておられます。それは私たちと日々一緒に歩んで、喜びも悲しみも共有してくださることです。そればかりか、私たちの歩みを導き、どんなことも無駄にならず、すべての事を“益”としてくださるのです。世間で、失敗といわれることであっても、主を信じていくなら、必ず感謝することになるのです。(KE)

2月28日(火)の聖言

2012年02月28日 | Weblog
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」Ⅱコリント4:16 

私たちの家庭も仕事も健康も時と共に変わって、失われます。ですから、そのような外側の境遇を拠り所にしている限り、私たち自身が崩れてしまいます。外部の状態が失われても、“内なる人”は神様から命が与えられ、力に溢れます。その命はキリストの言葉を通して日々新しく満たされるのです。内なる人が弱ると致命傷ですから、常にチェックしておきましょう。(KE)

2月27日(月)の聖言

2012年02月27日 | Weblog
「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩篇8:4

神様が私たちを心に留め、顧みられるなど、考えると驚天動地の事態です。神様にとってどれほど役に立ち、値打ちがあると言うのでしょうか。しかも愛のまなざしとみわざをもって目を注いでくださるのですから。自分を省みるなら、どんな取扱いを受けようと当然です。ダビデは羊飼いから王になった人物ですが、神様の圧倒的な恵みのもとに自分を置いていました。これが人生勝利の秘訣です。(KE)

2月26日(日)の聖言

2012年02月26日 | Weblog
「心はよろずの物より偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」エレミヤ17:9 

心ほど当てにならない不確かなものはありません。“女こころと秋の空”などと言いますが、女性のみならず、すべて人の心は自分のものでありながら、自分ではどうにもできません。平穏無事で何事もないときには気がつきませんが、一旦事がおこると、怒り、妬み、悪心、思い煩いなど、様々な悪が湧き出て手に負えません。そのような心を治めるには神様の力によらなければできません。(KE)

2月25日(土)の聖言

2012年02月25日 | Weblog
「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6 

人の見るところ、思うことは限りあるもので、目先のことしかわかりません。一方、神様のご計画、み思い、なさる業は、広大無辺、私たちの到底及ぶものではありません。世界は神様のご支配の下で万物が動いています。ですから、私たちの浅知恵で理解できないのは当然です。私たちの周囲には不条理、不当、理不尽と思える事態や事柄が多々ありますが、そこにも主のみこころがあり、人知を越えた業があるのです。(KE)

2月24日(金)の聖言

2012年02月24日 | Weblog
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」ルカ21:33 

宇宙から帰還する宇宙船は大気圏に突入すると、高温の火炎に包まれた火の玉になります。しかし、特殊なタイルで保護されているので火に焼かれず、乗員も安全に守られます。み言葉はまさに宇宙船のようなもので、それにより頼む私たちは滅びることなく、安全が保障されているのです。多くの人は緊急時に備えてあれこれ方策を立てますが、大地震や津波が来れば一瞬にして消えてしまいます。命を守るものはみ言葉です。(KE)

2月23日(木)の聖言

2012年02月23日 | Weblog
「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを。」エレミヤ 10:23 

今の季節は卒業入学など新しい旅立ちの始まりです。自分が考え、決めた道が最善だと思って、歩みますが、しばしば思いがけない道、願わない道などに出会います。そのとき、自分の能力不足や努力不足を悔やみます。しかし、すべての道は神様によって備えられるもので、自分で決めることができません。謙遜になって、神様を求めることが大切です。(KE)

2月22日(水)の聖言

2012年02月22日 | Weblog
「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」マルコ1:18 

イエス様の弟子たちは辺境の地、ガリラヤ湖畔の漁師たちです。イエス様が彼らを招かれると、即座に従いました。「網」を捨てるとは彼らにとって命の源を絶つことにほかなりません。イエス様に命を懸けたのです。それはまたこの世の肉の糧による生活ではなく、天から与えられる命のパンによって生きる者となることです。私たちも同様にイエス様によって生きるのでなければ命がありません。肉は人を生かすことができないからです。(KE)

2月21日(火)の聖言

2012年02月21日 | Weblog
「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」ローマ14:8 

イエス様を信じて生きるとき、生きる目的が変わります。かつてはすべてが自分を中心に回っていましたが、イエス様の十字架によって新しい命に生きるものとなりました。「主のために」「主のもの」となりきるのです。そうすると、具体的な生活のありようが自ずから変わります。自分の利益を求めず、人の毀誉褒貶に動かされない、真に自由な生き方になります。(KE)

2月20日(月)の聖言

2012年02月20日 | Weblog
「なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、わたしは息絶えて目に見られることなく、胎から墓に運ばれて、初めからなかった者のようであったなら、よかったのに。」ヨブ10:18-19 

これはヨブの言葉ですが、これほど絶望的な嘆きはありません。長い人生のなかで、人はかならずこのような心境に落ち込みます。確かに、その思いは理解できますが、そこに神様の主権、絶対者に逆らおうとする自我の力が働いています。所詮、人は被造物であり、どのような取り扱いを受けても当然です。今あるは神様の慈しみ、憐れみです。(KE)

2月19日(日)の聖言

2012年02月19日 | Weblog
「ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、…」サムエル上23:4

ダビデはサウル王に命を狙われ、逃亡しているとき、ケイラの村が敵に襲われて助けを求められたのです。彼がまずしたことは「主に問う」ことです。自分のいのちも危ういとき、人助けができる状態ではありません。また、常識的に「よいこと」であっても、それをすべきかどうか主に問う事がなによりも大切です。彼は確信が得られるまで、繰り返し主に問います。人の言葉、世の習い、自分の損得、欲得に動かされず、主に問うてください。(KE)

2月18日(土)の聖言

2012年02月18日 | Weblog
「しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」ヨハネ9:41

生まれながらの盲人が、イエス様の言葉に従い、シロアムの池に行って洗ったとき、目が見えるようになりました。当時の宗教家たちはそれが安息日であったことを口実に、自分たちを義なる者としてイエス様を不義なる者と非難したのです。自分はどこにも不義(罪)はないと言い張ることがまさに罪そのものです。人は誰一人「義人」はいません。自らのうちにある不義を、罪咎を認めて、イエス様の言葉に従うことが救いです。(KE)

2月17日(金)の聖言

2012年02月17日 | Weblog
「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27

 人はしばしばこんなはずではなかったと、今ある状態を嘆きますが、別の道を選べばよかったかと言えば、それは単なる空想にすぎません。今、現在の私たちは、それがどんな状況であっても、これ以外にありえないのです。神様がそのように導いておられるからです。イエス様は十字架の死を目前にして、これこそ自分の生きる道であることを確信しました。私たちも与えられた今の状態を神様からのものであると信じて感謝しましょう。(KE)

2月16日(木)の聖言

2012年02月16日 | Weblog
「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。」詩篇53:1 

神無き世界は無秩序と混とんが満ちて、倫理も道徳も、神様の作品としての人の尊厳も失われてしまいます。その結果、悪がはびこり、暴虐が世に満ちて、罪の支配するところとなります。それは社会的な現象にとどまらず、個人の心のなかにまで及びます。現代はまさにそのような時代ではないでしょうか。まず、神様の存在を認め、神様を畏れて、尊び敬うことを取り戻さねばなりません。(KE)

2月15日(水)の聖言

2012年02月15日 | Weblog
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」エレミヤ15:16

 聖書の言葉、み言葉は覚えるものではなく、食べるものです。私たちの日々食べる食物は鑑賞して楽しむものではなく、食べて活力にするためです。同様に、み言葉は信じて、生活の隅々に浸透させるとき、言葉は消えてもその中にあるいのちと力が具体的な行動や言動、思考や態度に現れてきます。そのとき、み言葉が喜びや楽しみをもたらします。(KE)

十字架のイエス・キリスト

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