goo blog サービス終了のお知らせ 

よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

3月31日(火)の聖言

2009年03月31日 | Weblog
 
「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。」Ⅰコリント1:8

「主イエス・キリストの日」とは終末のときです。その日がいつであるか分りませんが、神様はその日に間に合うように、私たちを新しく造りかえてくださいます。ですから、あせることも、不安になることもいりません。神様はみわざによって私たちを日々きよめ、ととのえ、御旨に適うものにしようとしています。主のなさるままにみ手に委ねましょう。

3月30日(月)の聖言

2009年03月30日 | Weblog
 
「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」黙示22:20 

すべてのものには始まりがあり、終りがあります。悠久のときを経た大宇宙も必ず終わります。それがいつであるかはわかりません。しかし、その終末のとき、主は再び来られるとの約束です。今の世の様子を見るとき、終りの近きことを感じます。全ての人が悔改め、救われることを切に願いますが、救の完成である主の来臨を待ち望むのは私たちの喜びです。「主よ、すみやかに来たり給え」と祈りつつ。

3月29日(日)の聖言

2009年03月29日 | Weblog
 
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。」マタイ23:25 

偽善とは建前や外見を重んじることです。本音と建前、内と外、表と裏など、二つの基準を設けて使い分けるのが、世間では「よし」とされているようです。しかし、神様の前では通用しません。偽善の反意語は言うならば「真実」と言えるでしょう。表裏一体、内外なし。これこそ力です。私たちも内も外もきよめて、神様の前に嘘偽りのない歩みをしましょう。

3月28日(土)の聖言

2009年03月28日 | Weblog
 
「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」マタイ6:8

神様は全知全能な方です。私たちの必要なものを知らないはずはありません。人の親でも限りある知恵で子供が必要なものを知り、備えようとします。ただ、だからと言って、何でも全部与えればよいわけではありません。それぞれの「もの」や「こと」に時があり、規模や内容も変化します。私たちが喜び、感謝し、主を称えることができるような方法や時期を神様は待っているのです。

3月27日(金)の聖言

2009年03月27日 | Weblog
 
「おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。」哀歌3:30-31 

右の頬を打つなら、左の頬を出せとは有名な言葉ですが、多くの人は誤解しているようです。打たれることが主眼ではなく、どんなことでも見ておられる方がいること、また必ず報いてくださることを信じるためです。どんなときにも、神様に期待していると、心にゆとりがで、望みを持つことができます。そうでないと、袋小路に追い詰められて自滅するほかありません。

3月26日(木)の聖言

2009年03月26日 | Weblog
 
「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27 

カード遊びをするとき、どんなカードよりも強いものをオールマイティと言います。まさに神様はそのような方です。天地万物、森羅万象をすべて創造された方は、いまも変ることなく、創造のみわざを日々続けておられます。私たちの全てを知り、すべてのわざを導き、生ける者の「主」です。今日の一日も、この方によってあなたのために備えられた日です。あなたは自分が「主」だと思っていませんか。

3月25日(水)の聖言

2009年03月25日 | Weblog
 
「キリストは彼のためにも、死なれたのである。」ローマ14:15

これは大変重い言葉です。主の救を受けた私たちは、気がつかないうちに自分を義としています。その結果、まだ主を知らない人たちを批判し、“未信者”と称して差別します。しかし、神様から見ると、彼も我も同じものです。イエス様の十字架の死によって、罪を許された者です。ただ、それをすでに信じた者か、これから信じる者であるかの違いにすぎません。神様の側に立つなら、過去現在未来に渡って、すべての人のために、救は完成しているのです。

3月24日(火)の聖言

2009年03月24日 | Weblog
 
「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ヨハネ4:14 

イエス様はスカルの町で一人の女に出会います。彼女は五人もの夫に仕えた人でした。それは不品行のゆえではなく、渇くものがあって、次々と求めた結果でした。それを満たすにはイエス様による以外にありません。私たちの仕えるべき夫はイエス様です。あなたが主の花嫁となり、花婿の言葉に従うとき、永遠の命をいただくのです。

3月23日(月)の聖言

2009年03月23日 | Weblog
 
「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。」マルコ1:12 

主はバプテスマを受けられた後、荒野で試みに遭いました。それは神様の深いご計画で、御霊に導かれた結果です。神様は私たちの信仰が成長し、堅固になるよう願っています。それゆえ、救われた者は格別期待が大きいだけに、試練も多くなります。しかし、イエス様が試みられているときも、御使いが仕えていたとあります。試練のとき、無力さと孤独を感じますが、御使いがあなたと共にいることを覚えていてください。

3月22日(日)の聖言

2009年03月22日 | Weblog
 
「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」マタイ24:42 

終末の時、イエス様が再び世に来てくださるとの約束を信じて、今の時を生きています。その時がいつであるか、誰にもわかりません。その時がいつであっても、喜んで、恥ずかしくなく、主のみ前に立てるように生きることが、私たちの日々の目標です。毎日の行動規範、世間で言う「倫理」は、私たちにとって「今、主が来られてもみ前に立てるか」を問うことです。

3月21日(土)の聖言

2009年03月21日 | Weblog
 
「見よ、わたしは、たなごごろにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」イザヤ49:16 

忘れてはならないこと書き留めるに、手近なものとして手のひらに記すことがあります。神様はあなたのことをご自分の手のひらに「彫り刻んだ」と言われます。刻印したものはどんなことをしても消えません。神様はそのような堅固な思いで私たちを覚えておられますが、一方、私たちは神様をなんと忘れやすいものでしょうか。自分では小さな目に留まらない存在と思っても、神様には「石がき」のように見えているのです。

3月20日(金)の聖言

2009年03月20日 | Weblog
 
「もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。」マタイ18:13 

どんなに多くの人がいようと、神様が心を向けておられるのはたった一人のあなたに対してです。ともすると、集団の中の一人になろうとします。神様の目にとまらない存在だと不満に思いますが、小さく、無きに等しい者にこそ主は目を向けて、あなたを捜しておられます。他の人はどうであれ、まず主とあなたとの愛によるかかわりを堅くしてください。

3月19日(木)の聖言

2009年03月19日 | Weblog
 
「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。」ルカ19:6 

ザアカイは多くの人から強欲のゆえに嫌われていました。彼の町にイエス様が来られた時、思いがけず、彼の家に泊まってくださったのです。愛されたり、好まれたことのない彼にとって、このことは彼の心の琴線に触れる事態でした。彼の行動について、主は一言も言いませんが、彼の生活態度は全く変りました。イエス様は人の心の奥深くに届いて、心を造り変える方です。心が変われば、生活が変ります。私たちも「よろこんで」主を迎えましょう。

3月18日(水)の聖言

2009年03月18日 | Weblog
 
「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。」使徒3:6 

生まれながらに足のきかない物乞いする人に語ったペテロの言葉です。何かをもらいたいと期待しましたが、ペテロにはなにも与えるものがありません。しかし、彼にはイエス様を信じる信仰がありました。これは金銀に勝る大きな資産です。彼自身がイエスによる信仰に生きていたからそのように言えたのです。私たちも朽ちゆく金銀によらず、信仰に立って力を得ようではありませんか。

3月17日(火)の聖言

2009年03月17日 | Weblog
 
「この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。」使徒28:26 

「見ても見ず、聞いても聞かず」と世間でも言いますが、人は勝手なもので自分に都合の良いことだけしか見ようとも、聞こうともしません。耳に痛い言葉を避け、かかわりを避けて目をそむけます。そうである限り、人は変ることが出来ず、新しくなることもできません。神様の言葉、みことばをえり好みせず素直に受け入れましょう。痛い言葉にこそ神様のみこころが語られているからです。

十字架のイエス・キリスト

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/EjJNEsDJPFk" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>