「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17
人は自分の存在が役立つもの、意味あるものと認められたいと願います。その結果、僅かな業績でも誇ろうとします。自分の力、知恵、わざ、働きなど、何かを自慢して、それによって自分の存在意義を確認したいのです。しかし、自分の功績を誇る限り、神様を認めることができません。もし自分に出来ることがあれば、それは神様の業です。人の存在意義は神様に命がけで愛されたものであることに尽きます。(KE)
「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』。」マタイ9:12
病院は病気の人が来ます。健康な人には用事のないところです。信仰もそれと同様で、必要でない人には無用の長物、邪魔ものに過ぎません。「豚に真珠、猫に小判」ともいわれますが、確かに、求める人には貴重な物であっても、価値が分からず、必要でなければ迷惑です。イエス様の救いもあなたが救われたいと渇いて求めるとき、命となりますが、そうでなければ無益です。(KE)
「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」ローマ2:4
神様がイエス様をこの世に遣わして人の罪をあがなう犠牲とされたのは、ただ一方的なご愛のゆえであり、多くの人が悔改めて救いに入ることを願っているからです。そのような神様の真心を知ろうとせず、いつまでもかたくなで悔改めようとしないのは、神様の愛と恵みをドブに捨てるようなものです。神様の限りない愛に感じ、その恵みに感謝し、悔改めて、神様のみこころに従いましょう。(KE)
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」イザヤ30:15
自分の力や知恵で何かができると思っている間、神様に真剣に頼ろうとしません。しかし、人の出来ることは限られたこと、否、何もできないのです。それを徹底して悟るのを神様は待っておられます。無駄な抵抗をせず、素直になって神様を信頼したいものです。神様のなさる時とわざを期待して。(KE)
「イエスは彼らに言われた、『きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう』。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。」ヨハネ1:39
どこに泊まっているかとの質問に答えた言葉ですが、ただ単に「宿泊所」がどういうところか、との問答にしては奇異なことです。しかし、主が言われるのはご自分の生き様を知って欲しいのです。そのためには、言葉だけの説明・解説では知りえません。実験体得することに尽きます。イエス様を生きる、体験するために自分を捨ててかかりましょう。(KE)