よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

1月28日(土)の聖言

2017年01月28日 | Weblog

「今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。」列王紀下5:26b

  スリヤの将軍ナアマンは預言者エリシャによって病を癒されました。エリシャは将軍からの謝礼を断りましたが、弟子のゲハジは欲を出して密かに将軍から金品をもらいました。これはそのときのエリシャの言葉です。預言者の弟子として今彼がしなければならないことは何か?自分が与えられた身分、使命を自覚しなければ分かりません。今、あなたがすべきことは何でしょうか。(KE)

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1月27日(金)の聖言

2017年01月27日 | Weblog

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

 神様の救いは、闇から光へ、「御子の支配下」へ移して下さったことです。かつては真の神様を知らず、闇の中で罪と咎とに死んでいた者です。そのため喜び、感謝、望みなく、怒り、むさぼり、妬み、恨みなど、「やみの力」に囚われ、奴隷となっていました。今はイエス様の十字架によって解放され、よみがえったイエス様が私達のすべてを支配してくださいます。今日も主に従い、仕えましょう。(KE)

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1月26日(木)の聖言

2017年01月26日 | Weblog

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。」第一テモテ4:7

 昨今のテレビ番組など、なんとばかげたものかと呆れますが、多くの人がそのようなものに時間を費やしています。人は限られた時間の中で生きています。それだけに、貴重な時間を何のために使うかが、その人の生き方です。「信心」などと言うと、抹香臭い、古いものと思われますが、人の心、精神など、内面世界を広げることは、心がけて訓練しなければ得られないと同時に、それこそが人の価値です。(KE)

Photo by 輝子さん

 

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1月25日(水)の聖言

2017年01月25日 | Weblog

「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。」ヨハネ14:13a

 日本にも神々と称するものがたくさんありますが、「かなえてあげるから祈りなさい」と勧めてくれるものがあるでしょうか。また、それを約束した証文でもあるでしょうか。聖書には「祈りなさい」「求めなさい」と繰り返し言われています。神様が私達の祈りを聞いてくださるからだと。しかも、真の神様は御子イエス様のゆえに「かなえてあげよう」と言われます。これほど確かな約束はありません。遠慮なくどんなことでも祈りましょう。(KE)

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1月24日(火)の聖言

2017年01月24日 | Weblog

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10

 そうです、「しばらくの苦しみ」です。苦しんでいるときは永遠に続くように思えますが、「しばらく」です。それを通り過ぎるとき、「あふるる恵み」の神様は豊かに恵み、私達を造り替えて、栄光にふさわしくしてくださいます。だから、苦しみに失望しないで、信仰をしっかり握って、耐え忍んで勝利しましょう。(KE)

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1月23日(月)の聖言

2017年01月23日 | Weblog

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28

 入学試験でも、就職でも、より良い人、より優れた人を選ぼうとします。しかし、神様はそうではありません。なぜなら、世の負け組みと言われる人を通して、神様の力、知恵、恵みを表わそうとなさるからです。優秀な人は自分の才能、力を誇るでしょうが、誇るものが無い人は神様に頼り、神様を誇らざるを得ません。弱い者、愚かな者であることを感謝しましょう。(KE)

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1月22日(日)の聖言

2017年01月22日 | Weblog

「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。」詩篇116:12

 私達は気がつかないうちに自分の力、知恵、努力、計画によって、今生きていると錯覚しがちです。確かに、見たところ、そのように思われますが、見えている事の背後に神様の愛の手があり、恵みがあります。それを忘れるとき、人は高慢になり、感謝を忘れ、命を失います。絶えず心を低くして、神様の前にへりくだって、感謝したいものです。それによって、さらなる主の祝福と恵みを受けることができます。(KE)

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1月21日(土)の聖言

2017年01月22日 | Weblog

「先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。」伝道1:9

 「歴史は繰り返される」と言われます。人の世に新しいと言われるものは、外見はどうであれ、過去にあったものです。また、人が考えてすることは、どんなに奇抜なものであっても、同じ轍をたどって、同じことのくりかえしにすぎません。それは人が神様になりえない証拠です。なぜなら、神様は人の思い、知識を越えた全く新しいことをすることが出来るからです。(KE)

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1月20日(金)の聖言

2017年01月20日 | Weblog

「そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」マタイ7:17

 この言葉に先立って、「その実によって彼らを見わけるであろう」とあります。「実」とは結果です。どんなに立派なことを言っても、それに伴う結果がなければ「見かけだおし」です。信仰生活も同じで、みことばを信じて、具体的に歩まなければ、ただ「絵に描いた餅」にすぎません。ぶどうの木(良い木)であるイエス様につながっている限り、必ず良い実を結びます。それ以外の木につながるなら、悪い実しか結べません。(KE)

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1月19日(木)の聖言

2017年01月19日 | Weblog

「すると彼は言った、『あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです』。」ヨハネ9:25

 イエス様から目が見えるように癒してもらった人の証言です。彼は自分の身に起ったことを通してイエス様を知りました。人が何かを知るにはいろんな方法があります。今は情報過多の時代です。どんな情報であっても、自分の実体験に勝るものはありません。殊にイエス様を知り、神様を知るには直接見て、聞いて、触る、体験することです。(KE)

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1月18日(水)の聖言

2017年01月18日 | Weblog

「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」詩篇19:1

 神様の存在をどのように証明するか、との議論は古来から続いています。しかし、どんなに議論や思考を重ねても、決して結論はでません。ただ、私達は身辺に溢れる森羅万象を通して、神様が存在するとしか言えない現象を経験的に知るからです。科学万能の時代に、神様など胡散臭いと思われますが、むしろ科学の世界ほど神秘に満ち、神様の存在を確信させるものはありません。(KE)

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1月17日(火)の聖言

2017年01月17日 | Weblog

「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』。」ヨハネ5:8

 38年間も病気に悩んだ人が、ベテスダの池のほとりに横たわって、奇跡を信じて待っていました。水が動くとき、真っ先に入る人はどんな病気も癒されると信じていた。この方法しか道はないと思っていたのです。人は既成概念、固定観念などに囚われて、そこから踏み出そうとしません。主のことばはこの人には破天荒なもの、ありえないことでした。しかし、主は頑固な底岩を打ち砕いて、みことばによって立ち、歩ませました。(KE)

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1月16日(月)の聖言

2017年01月16日 | Weblog

「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」詩篇127:2

 生きるために、自分の力と才覚で労苦を忍ぶのは褒められるべき事のようですが、ただそれによって自分を誇り、自己満足で終わるなら、まことにむなしいことです。同じ労苦を忍ぶにしても、神様の恵みによって生かされている感謝と喜びがあるなら、どんなに幸いでしょうか。私達の持っているものはすべて神様からいただいたものです。(KE)

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1月15日(日)の聖言

2017年01月15日 | Weblog

「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」ヘブル10:36

 「インスタント」と言う言葉が広まったのはいつごろからでしょうか。「手軽に、早く」の意味で使われるようになりました。それとともに、「ファーストフード」と言う言葉も一般化して、待つことが出来にくい人の性質がもろに現れた社会になりました。しかし、信仰はそのような風潮に逆行するものです。待つこと、忍耐こそが信仰だからです。神様が時を備え、導かれるのです。(KE)

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1月14日(土)の聖言

2017年01月14日 | Weblog

「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。」ヨハネ10:11

 イエス様はご自分を羊飼い、私達を羊にたとえています。羊は自分で牧草を見つけ、飲み場を探し、外敵に立ち向かうことができません。羊飼いに守られ、導かれ、命が与えられるのです。一方、羊飼いは命がけで羊を大切にします。それゆえ、両者は深い信頼に根ざしています。今、私達はこのような関係をイエス様と結んでいるでしょうか。すでに主は私達のために命を捨てられました。(KE)

Photo by 「sanbika.net」 さんより

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十字架のイエス・キリスト

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