よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

8月31日(月)の聖言

2009年08月31日 | Weblog

「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3

「荒野」「さばく」とは文字通り不毛の地、楽しませ、喜ばせるものもない状況といえます。人生にもたびたびそのような境遇に出会いますが、そこでなにをすべきでしょうか。「主の道」「大路」を備え、真っ直ぐにせよと言われます。神様に対する姿勢、信仰の内実を神様の求めておられる標準にあわせることです。自我流の信仰ではなく、聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう。(KE)

8月30日(日)の聖言

2009年08月30日 | Weblog

「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。」イザヤ43:21 

イエス様の救をいただくことは古い自分を捨てて、キリストを着る者となることです。これはまさに“新創造”です。なんのためにでしょうか。それは「わが誉を述べさせる」ためです。神様はご自分の目的のために私たちを救い、清め、新しくしようとするのです。私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます。神様の巧みな手に委ねて、どのようなわざがなされるか期待しましょう。(KE)

8月29日(土)の聖言

2009年08月29日 | Weblog

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」箴言17:1 

『衣食足りて礼節を知る』と昔は言われたものです。豊かになれば、人はみな穏やかになり、平和になると思われましたが、今やあり余るほどのものに囲まれながら、争い、不平、無気力がはびこっています。全てのものの根源であり、供給者である神様を忘れた結果です。小さなことから、大きなことに至るまで、全てが神様の恵みによることを認めて、喜びに溢れて感謝する者となるならば、「かわいたパン」も山海の珍味となるでしょう。(KE)

8月28日(金)の聖言

2009年08月28日 | Weblog

「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」エレミヤ10:24 

人は科学や芸術、政治や経済を誇り、知恵や知識を自慢しますが、もっと身近な人の道、正邪の区別などを知りません。それを教えてくださるのは神様だけです。神様の懲らしめは嫌なことですが、それによらなければ悟れないほど、人は愚かな者です。怒りを伴わない懲らしめは教育であり、怒りによる懲らしめは懲罰です。たとえ懲らしめによってでも、神様の知恵をいただきましょう。(KE)

8月27日(木)の聖言

2009年08月27日 | Weblog

「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』。」イザヤ57:15

神様が住み賜う所が「高く、聖なる」ところであるのはしごく当然だと思いますが、それでは私たちが神様に近づくことは出来ません。しかし、幸いなことに神様はまた「心砕けて、へりくだる者」と住んでくださるのです。今日も、「心砕け、へりくだる者」となって、神様と共に生きてください。(KE)

8月26日(水)の聖言

2009年08月26日 | Weblog

「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」詩篇24:1 

人は勝手に自分のものだと決めていますが、全ての創られたものは創造者である神様のものです。私たちの体も、健康も、家族も、仕事も、すべて主のもので、私たちは使用権を付与されているだけです。だから、所有者の意向に従って用いなければならないばかりか、誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。それを忘れて、まるで自分の所有物であるかのように扱うことが、神様に対する罪の一つです。(KE)

8月25日(火)の聖言

2009年08月25日 | Weblog

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ4:25 

イエス様の死とよみがえりは、私たちにとって信仰の原点です。神様のひとり子であるイエス様が罪人である私のために、神様からの刑罰を受けてくださった。それによって、私たちの罪は完全に赦されました。さらに進んで、神様はイエス様を死からよみがえらせて、私たちの命として与えてくださったのです。今日も、その命に生きているものであることを自覚し、感謝しようではありませんか。(KE)

8月24日(月)の聖言

2009年08月24日 | Weblog

「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。」詩篇119:68 

神様は「善」だと言われています。新約では神様を「愛」と呼びます。いずれにしても、神様は私たちによきことをなそうとされる、心の温かい、情愛に溢れた方です。ところが、人はそれを信じようとしないで、人の優しさや、情け深さに期待して、裏切られ失望します。しかし、期待すべき相手を間違えているのですから、自業自得です。信頼すべき方は神様だけです。また、神様は常に「善」をあなたに図っておられます。(KE)

8月23日(日)の聖言

2009年08月23日 | Weblog

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9 

神様が思い計られることと、人が計画することはまったく違います。わたしたちは自分の人生だと思って、計画通りに事を運ぼうとしますが、そうはなりません。実は、神様が備え導かれるからです。神様は思いがけない、想像すらしないことをおこなわれます。今日も、神様の知恵とわざに導かれましょう。(KE)

8月22日(土)の聖言

2009年08月22日 | Weblog

「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」申命記34:7

 神様から大事業に召されたモーセはやがて使命をおわり、神様のもとに召されました。そのとき、約束の地カナンが目前にありましたが、彼はそこに渡ることができなかったのです。これは彼の事業ではなく、神様のみわざだからです。彼は老いさらばえて、もうろくし、見るも無残な老人となって亡くなったのではなく、まだ元気に満ち、溌剌としたままで召されました。それは神様の祝福であり、神様が引き上げられたゆえです。(KE)

8月21日(金)の聖言

2009年08月21日 | Weblog

「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」Ⅰサムエル26:9 

ダビデにとって宿敵サウル王を討つ絶好の機会が巡ってきました。忠実な部下アビシャイは一突きで殺そうとしますが、ダビデは止めます。神様を畏れるからです。サウル王がどうあろうと神様が王として立てられた以上、神様が除かれるに違いない。これがダビデの信仰です。主を待たずに手っ取り早く事を済ませようとしやすい私たちです。そうするとき、神様から離れます。(KE)

8月20日(木)の聖言

2009年08月20日 | Weblog

「彼女は言った、『どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください』。こうして、その女は去って食事をし、その顔は、もはや悲しげではなくなった。」Ⅰサムエル1:18 

エルカナの妻ハンナは子供がなく、肩身の狭い思いをしていました。そのため、切に祈っていました。ある年、神殿で祭司エリに打ち明け、執り成しの祈りをしてもらいました。それ以来、彼女は確信を与えられ、もはや憂いはなくなったのです。いつまでも憂えず、祈って信仰に堅く立って、身も心も新しくなろうではありませんか。(KE)

Photo by 「時・空・写真館」様


8月19日(水)の聖言

2009年08月19日 | Weblog

「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」申命記30:19

 神様の救のみわざはイエス様の十字架によって完成しています。それ以上に付け加えるものはなにもありません。ただ選択と決断が私たちに委ねられています。事の大小を問わず、すべてのことには「命と死」「祝福とのろい」のいずれかを選び、決断することがもとめられているのです。神様が私たちを裁いて滅ぼされるのではなく、私たちが死とのろいを選ぶからです。どうぞ命を選んでください。(KE)

8月18日(火)の聖言

2009年08月18日 | Weblog

「モーセは言った、『行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう』。」出3:3 

モーセは羊の群れを飼っていたとき、神の山ホレブで柴が燃えているのを見ました。すぐに燃え尽きるはずのものが、なかなか燃えてしまわないので、不思議に思って近づいたのです。それによって彼の人生が大転回します。私たちも神様の霊に満たされ、どんななかでも喜び、讃美、感謝していれば、多くの人がその秘密を知りたいと近づいてきます。それによって主に出会い、人生が変るのです。あなたが燃える柴となってください。(KE)

8月17日(月)の聖言

2009年08月17日 | Weblog

「カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。」創世記4:8

 人類最初の殺人事件です。下手人はカインであることははっきりしています。ただその動機は不可解です。彼の言い分は神様がアベルの供え物を顧みられたからです。だからといって、アベルは殺されるほどの悪行をカインにしたのでしょうか。いいえ、なにもしていません。真の動機は神様の取り扱いに憤った結果、怒りの矛先が罪なきアベルに向かったのです。これが罪の実相です。私たちは神様のなさるわざに憤ることがなんと多いことでしょうか。自戒を込めて。(KE)

Photo by 「時・空・写真館」様

十字架のイエス・キリスト

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