5月31日(土)の聖言 2008年05月31日 | Weblog 「翌日、一同が山を降りて来ると、大ぜいの群集がイエスを出迎えた。」ルカ9:37 これは不思議な体験をした「変貌山」の記事に続いた言葉です。 イエス様と弟子達は、神様の栄光に包まれ、天国の体験をしました。 いつまでもそこに留まることを願いましたが、現実の世界へともどってきました。 信仰生活は浮世離れした世界で生きるのではなく、 苦しみと悩み、病気や貧困などの満ちた人々の中で生きることです。 現実の問題や困難をさけるのではなく、その只中に生きる力こそ、 イエス様を信じる信仰です。 (榎本和義牧師)
5月30日(金)の聖言 2008年05月30日 | Weblog 「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、 行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」Ⅰヨハネ3:18 言葉だけであったり、口先だけの話なら、絵に書いた餅にすぎません。 信仰はそのようなものではなく、実態の伴うものです。 イエス様の自分を捨てた犠牲的愛を信じるなら、そのように体験しなければ、 信仰の完成はありません。また、信じたこと、聞いたことを身をもって 経験するとき、それらがはじめて自分のものとなります。 「できない」と言わずに、み言葉を信じて踏み出してください。 (榎本和義牧師)
5月29日(木)の聖言 2008年05月29日 | Weblog 「シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、 何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう』。」 ルカ5:5 ゲネサレ湖畔で群衆に教えられたのち、イエス様はシモンに沖へこぎ出し、 漁をするよう言いました。シモンは代々漁師の子で、漁の専門家、 イエス様は大工の子、どちらが正確な知識があるでしょうか。 シモンは自分の経験や知識を捨てて、イエス様の言葉を信じました。 そして、その通りに行動したのです。主の言葉に従うとき、 あなたも神の業を体験します。 (榎本和義牧師)
5月28日(水)の聖言 2008年05月28日 | Weblog 「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、 神の御使いたちの前でよろこびがあるであろう。」ルカ15:10 世間では数が多ければ勢いを誇示できると思いがちです。 しかし、神様が求めておられるのは、ただあなた一人です。 ひとりの悔い改めが天での大きな喜びを引き起こします。 それほどに、神様はあなたに心を注いでおられるのです。 そのあかしがイエス様の十字架です。どんな境遇にあっても、 今日、主のご愛と顧みを感じつつ生きてください。 (榎本和義牧師)
5月27日(火)の聖言 2008年05月27日 | Weblog 「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。 そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」ルカ12:8 ぶどう園の主人はイチジクの木を植えていました。 しかし、実が実らないので、切り倒すように命じました。 イチジクの木は私たちのことです。いつまでも、神様のみこころに従わないで、 自分勝手な生き方をしているゆえに、切り倒そうとしています。 園丁であるイエス様は、今日も十字架の血を携えてとりなしておられます。 悔改めて、主のみこころに従い、実を結ぶ者となりましょう。 (榎本和義牧師)
5月26日(月)の聖言 2008年05月26日 | Weblog 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ12:15 美しい言葉です。名筆の書にして、飾っておくには最適ではないでしょうか。 しかし、これを実行せよと言われると、不可能です。 一見、出来そうに思われますが、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことすら、 本当にそれが出来るか問われるなら、喜ぶ者を妬み、 うらやむことしか出来ません。 一方、「泣く者」と共に泣くことも困難です。 共に喜び泣くことの出来る方はイエス様以外にありません。 一歩でも、半歩でも、主に倣う者となるため、祈りつつ力を頂きましょう。 (榎本和義牧師)
5月25日(日)の聖言 2008年05月25日 | Weblog 「主はおのれを待ち望む者と、 おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。」哀歌3:25 神様は真実な方ですから、私たちが神様をどのように信頼するかによって、 それに答えてくださるのです。「あなただけです」と、 一心になって信頼するならば、そのように報いてくださいますが、 軽くあしらい、他に頼るものがあれば、そのように応答されます。 神様の恵みをいただく秘訣は、全て私たちの態度にかかっています。 心と思いを清めて、真実に信頼して、神様の恵みと救いを体験しましょう。 (榎本和義牧師)
5月24日(土)の聖言 2008年05月24日 | Weblog 主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、 試練の中にある者たちを助けることができるのである。」ヘブル2:18 イエス様はよみがえって、わたしたちとともにいてくださいます。 それは私たちを慰め、励まし、導き、守ってくださるためです。 主は私たちと同じ試練をうけ、同じ目線で同じ場所に立ってくださいます。 家族であってもお互いの気持を理解することは困難ですが、 主はあなたのすべてを分かち合うことができます。 この方に信頼し、打ち明け、求め、従うなら、どんなに幸いなことでしょうか。 (榎本和義牧師)
5月23日(金)の聖言 2008年05月23日 | Weblog 「主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。 主はおのれを恐れる者と、そのいつくしみを望む者とをよみせられる。」 詩篇147:10-11 誰でも力のあるものを頼ろうとします。その結果、知力、経済力、政治力、 軍事力など、「馬」や「足」の力を求めますが、それらは必ず失望に終わります。 神様が喜ばれることは、主を恐れ、そのご愛と恵を信頼する人です。 今日も、主の恵を信じて、信頼してください。 (榎本和義牧師)
5月22日(木)の聖言 2008年05月22日 | Weblog 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、 その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17:10 人は外見やうわべの様子で他人を知る以外に方法がありません。 まして、その人の心がどんなであるかは分かりません。 しかし、神様は心を探り、思いを知り尽くしています。 ただ知っているだけでなく、その心と思いの結果について報われるのです。 その意味で、神様は怖い方であり、侮るべきものではありません。 神様の評価と報いを期待する歩みをしましょう。 (榎本和義牧師)
5月21日(水)の聖言 2008年05月21日 | Weblog 「ダビデはミカルに言った、『あなたの父よりも、またその全家よりも、 むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。 わたしはまた主の前に踊るであろう』。」サムエル下6:21 ダビデ王は久しく奪われていた神の箱(契約の箱)をダビデの町に迎えました。 彼は嬉しくて王の立場も忘れて箱の前で踊りました。 今あるのは、神様のただ恵みと憐れみによることを思って、 恥も外聞もかなぐり捨てて、主に感謝せずにいられなかったのです。 私達はこれほどの感謝を主に奉げているでしょうか。 (榎本和義牧師)
5月20日(火)の聖言 2008年05月20日 | Weblog 「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。 彼らには助けがない。その息が出ていけば彼は土に帰る。 その日には彼のもろもろの計画は滅びる。」詩篇146:3-4 朝顔が支柱を頼りに伸びていくように、 人は必ず何かにすがらなければ立てません。 神様は、ご自分を頼らなければ生きれないように、人を造られたのです。 ところが、人は頼りにならないものを頼るようになって、神様から離れました。 その結末は「滅びる」だけです。あなたが今信頼しているものは何でしょうか。 (榎本和義牧師)
5月19日(月)の聖言 2008年05月19日 | Weblog 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない。 ただ父だけが知っておられる。」マタイ24:36 世の終りの時がいつであるか、弟子たちの問いに答えた言葉です。 先ごろ中国では大地震によって多数の死傷者がでました。 人は自分でなくて良かったと思いやすいですが、 終りのときは全ての人に平等です。それは必ず来ます。 ただ、遅いか早いか、その時はわかりません。 いつ、どのような事が起っても、大丈夫と言える様に備えてください。 主は「目をさましていなさい」と警告しています。 (榎本和義牧師)
5月18日(日)の聖言 2008年05月18日 | Weblog 「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、 無から有を呼び出される神を信じたのである。」ローマ4:17 私たちの信じる神様はどのような方でしょうか。 ひ弱な、力のない、人の手を借りなければ何も出来ないものだったら、 信じる値打ちがありません。死人を生かし、何もないところから、 造り出すことの出来る方、全能の神だから信じる価値があるのです。 イエス様の誕生も、ご復活も、神様のなさることだから、疑う余地はありません。 私たちの思いのなかに、「神様のなさることだから」の 項目を置いておきましょう。 (榎本和義牧師)
5月17日(土)の聖言 2008年05月17日 | Weblog 「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、 手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24 日本でも、各地に神社仏閣があります。 そこは神仏の宿るところとして大切にされていますが、 本来、神なる方は人の手で造られたものなど必要ありません。 この言葉に続いて、「また、何か不足でもしておるかのように、 人の手によって仕えられる必要もない」とあります。 神様はご自身で完結充足した存在です。 神様が私たちを求めてくださるのはただ憐れみによるのです。 (榎本和義牧師)