5月31日(日)の聖言 2009年05月31日 | Weblog 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28 神様のなさることを初めから終りまで見通すことはできません。そのため、今起っていることがどのような結果になり、何の役に立つのかさっぱりわかりません。そこで求められるのが信仰です。神様のなさることには一つも無駄はなく、過不足もないと信じて、今、目の前の一歩を踏み出すのです。すると、神様は働いて「益」としてくださいます。
5月30日(土)の聖言 2009年05月30日 | Weblog 「それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。」使徒16:6 パウロは地中海沿岸の町々に福音を述べ伝えていました。これは彼の野望や功名心によることではなく、聖霊に導かれたわざでした。御言を語ることが彼の使命ですが、「聖霊に禁じられた」とき、それに全く従いました。人が考えて「良い」と思うことでも、「聖霊」に従うほうが大切です。聖霊は常識や良識をこえて、変幻自在に人や事を導かれます。このとき、パウロは思いがけずマケドニヤへ渡ることになります。 イラストByすずらんさん
5月29日(金)の聖言 2009年05月29日 | Weblog 「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」歴代下26:16 ウジヤ王は若くして王位につき、神様を畏れて敬虔に従いました。その結果、神様は大いに祝福して国を栄えさせたのです。しかし、豊かに強くなり、恵みに慣れて、彼は祭司だけに許された務めを勝手にして神様を侮り軽んじました。神様の恵みと慈愛に感謝し、いつも心低くして謙遜でありたいものです。
5月28日(木)の聖言 2009年05月28日 | Weblog 「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」Ⅰコリント3:23 そうです。そして、私たちは神のものです。私たちのものはありません。今日も、神様から預かった時間、仕事、お金、家族、自分ですから、自分勝手に使うことはできません。所有者である神様の意向を伺いつつ、用いてください。また、壊れやすく、傷つきやすい預かりものですから、大切に扱わなければなりません。間もなく、ご主人の前で精算する時が来ます。
5月27日(水)の聖言 2009年05月27日 | Weblog 「すると彼は言った、『あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです』。」ヨハネ9:25 生まれつき目の見えない人がイエス様の言葉に従ったとき、見えるようになりました。彼はどうしてそうなったのか、説明できませんが、見えるようになった事実は体験したことですから、少しの疑いもありません。この確かさこそ力です。イエス様を体験すること、これがない信仰は砂上の楼閣です。みことばに従って、主を手でさわろうではありませんか。
5月26日(火)の聖言 2009年05月26日 | Weblog 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。」ルカ8:39 「神様を褒め称える」、「主の栄光をあらわす」などと言いますが、具体的に何をすることでしょうか。その答えがこのみことばです。悪霊につかれていた人がイエス様によって正気に戻りました。彼はイエス様にどのように感謝すべきかなすすべがありません。主が求められたのは神様のわざを語ることです。私たちも主がしてくださったわざを大胆に語ろうではありませんか。日々、主のみわざによって生かされているのですから。
5月25日(月)の聖言 2009年05月25日 | Weblog 「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」マタイ18:5 ここで大切なのは「わたしの名のゆえに」です。幼な子が可愛いとか、可憐であるとか、そのようなことは一切問題ではありません。イエス様の代理者として受ける時、それはただ相手を受けいれたのみならず、イエス様を受けいれることでもあります。その他のことでも同様です。私たちが日々なすわざを主の名によってするとき、そこで主に出会うのです。今日も、主の名によって生きようではありませんか。
5月24日(日)の聖言 2009年05月24日 | Weblog 「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」ルカ17:21 「神の国はいつ来るのか」と尋ねた弟子たちに答えた主の言葉です。「神の国」は神様が主権者で、神様が統治する国のこと。それは見える形ではなく、私たちの心の状態です。あなたの心を支配している者は誰ですか。「俺だ」というなら、そこは神の国ではなく、俺の国です。イエス様に王となっていただくこと、これが神の国です。私たちは神の国の住人となり、王様に仕え、従う民です。
5月23日(土)の聖言 2009年05月23日 | Weblog 「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24 神様をどのような方と信じるか、これは信仰の姿勢を決定することです。日本人の神観は分業化したもののようです。商売の神、学問の神、病気治癒の神、安産の神、交通安全の神など、専門化されています。神様がそのようなものであったら、とうてい付き合いきれません。本来、神様はオールマイティで、例外なくすべてのものを造り、すべてを御心のままに支配する方ではないでしょうか。
5月22日(金)の聖言 2009年05月22日 | Weblog 「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」ローマ13:14 キリストを着るとは、キリストに似るものとなることです。そのためには、常時、「キリストならどうなさるか」「キリストなら何と言うだろうか」を問わなければなりません。尊敬する人、愛する人と常に一緒に行動すると、立ち居振る舞い、言葉遣い、考え方や価値観に至るまで似てきます。みことばをくりかえし心に味わいかみしめていると、気づかないうちに、キリストを着る者となります。
5月21日(木)の聖言 2009年05月21日 | Weblog 「それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。」Ⅰペテロ4:2 救われた者、クリスチャンの義務とは何でしょうか。善行功徳、犠牲献身、孝養愛人など、いろんなことが言われますが、そんなことよりも、「神の御旨によって過ごす」こと、これ以外にありません。何をするにも、しないにも、ことごとく神様の御旨に従って生きることに徹することです。御旨によらない善行も、孝養も、神様の報いを得られない空しい生き方です。祈って、主の御旨を求めましょう。 sayuriさん家の Nicole君です。
5月20日(水)の聖言 2009年05月20日 | Weblog 「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」Ⅱコリント12:7 パウロは肉体的な障害を持っていました。なんとかして、それをとり除いて欲しいと神様に願っていたのです。自分にとって不都合なことであっても、彼にはそれを受けるべき理由があったのです。「高慢にならないように」、これは人の犯しやすい罪の原因から遠ざけてくださる神様の恵みです。
5月19日(月)の聖言 2009年05月19日 | Weblog 「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」ローマ2:5 神様は慈愛と寛容な心で、今の時を忍耐して、すべての人が悔改めるのを待っておられます。しかし、多くの人々は神様の思いを悟らず、むしろ恵みの時を軽んじています。やがて、神様の怒りがくだる時が来ます。その結果は、自らが蒔いたものですから、自分が甘んじて受けなければなりません。人は自分から滅びていくのですから、悲しいことです。
5月18日(月)の聖言 2009年05月18日 | Weblog 「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」ルカ7:47 「罪のゆるし」と「愛」は密接に関係しています。「ゆるす」とはただ特定の行為や罪を許すだけでなく、相手のすべてを(好き嫌いにかかわらず)無条件で受容することです。だから、「愛される」とは「ゆるされる」ことでもあります。神様は私たちの有りのままの状態で受けいれてくださいました。そこには十字架による「ゆるし」があるのです。
5月17日(日)の聖言 2009年05月17日 | Weblog 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」ホセア6:1 悩みに会い、苦しみに遭うとき、あなたはまず何をしますか。神様が願っておられることは「主に帰ろう」と、神様のもとに立ち返ることです。悩みや苦しみは人や状況によって生じるのではなく、神様が起こされるからです。すべての根源である神様に立ち帰らずに何ひとつ解決できません。事態や境遇を造りかえるのは神様であって、あなたに善き事をしてくださいます。 (画像は尼田氏より)