よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

8月31日(金)の聖言

2018年08月31日 | Weblog

「いっその事、われわれはスリヤびとの陣営へ逃げて行こう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるならば、助かるが、たといわれわれを殺しても死ぬばかりだ。」列王下7:4cd

 サマリヤの町がスリヤ軍に包囲され餓死寸前になりました。物乞いをしていた四人はどっちみち死ぬのならと敵陣へ憐みを求めたのです。まさに一か八かの大勝負です。神様に信頼するのも同じです。自分を頼んでも何もできないのですから、命を賭して神様に任せてみようではありませんか。死んだ者となって。(KE)


8月30日(木)の聖言

2018年08月30日 | Weblog

「また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。」申命記8:13-14a

 人の最も弱い点は「たかぶり」やすいことです。困難や悩みがあると謙遜になりますが、状態が良くなるにつれて心が高ぶり、自分の力を誇るようになります。その時が大変危険なときです。救のめぐみも同様です。これから実りの季節を迎えます。稲穂の如く恵まれれば恵まれるほど、ますます心を低くして、主に感謝しましょう。(KE)


8月29日(水)の聖言

2018年08月29日 | Weblog

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16

 私たちは神様の宮であるとはなんと驚くべきことでしょうか。神様が住まれるところとは!人も自分の住むべき場所を快適にするように、神様も私たちをご自分の住まいにふさわしく、内外共に清め、整え、快適なものと造り替えます。また、手入れし、管理しておられます。うちに宿っている御霊の意向を無視して、勝手な使い方をするなら叱られます。御霊の声に従順に従いましょう。「神の宮」なのですから。(KE)


8月28日(火)の聖言

2018年08月28日 | Weblog

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。」イザヤ38:17

 「苦しみにあう」ことは人生の貴重な時間を無駄にしているように思われます。しかし、実はそれによって多くのめぐみを頂くのです。苦しみを通して人は練り清められます。ただ、そのときにはそれがわからないのです。小さな苦しみによってもっと大きな災いから逃れることができるのです。(KE)


8月24日(金)の聖言

2018年08月24日 | Weblog

「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」第二コリント6:8a

 今、自分はどういう者として生きているか、常に自覚しておきたいものです。パウロは「神の僕」と告白しました。それは誰が自分の主人であるかを表明したのです。しもべは主人に忠実でなければなりません。また、主人を喜ばせることがしもべの役割でもあります。周囲の人々がどんな評価をしようとも、主人に受け入れられなければ使命を果たせません。私たちも「神の僕」として生きようではありませんか。(KE)


8月23日(木)の聖言

2018年08月23日 | Weblog

「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。」使徒26:8

 キリスト教のつまずきの石として、処女降誕、イエス様の復活などが言われます。しかし、そのようなことが信じられない人はそもそも神様自体を信じられないのです。まず神様を信じるなら、神様は全能者ですから、人の知恵や知識を越えたどんなことでも出来ないことがないと信じるはずではないでしょうか。否むしろ、人が真似の出来ないことだから、神様はなさるのです。(KE)


8月22日(水)の聖言

2018年08月22日 | Weblog

「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7:14

 永遠の命を得るにはイエス様に従う以外にありません。しかし、それは世間の大勢に逆らうことになるから、困難の多い道です。一方、時流に流され、情欲のおもむくままに生きるのは容易いことです。その結果、人は少しでも楽な道を選び、結局滅びに向かうことになります。狭い門、細い道を通るには、その目標がはっきりしていなければ挫折します。私たちの求めているものをしっかり自覚して、命の道を進もうではありませんか。(KE)


8月21日(火)の聖言

2018年08月21日 | Weblog

「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」申命記34:7

 モーセは平穏な羊飼いの生活から引き出され、神様の命令によって神の民の指導者として立てられました。四十年余にわたる困難な事業を完成しようとしたとき、天に召されました。残念無念であったでしょうが、神様は使命を終わった者を天に召されたのです。高齢のため役に立たないからではなく、また、病弱だったからでもありません。人が死ぬのは病気などによるのではなく、神様が召されるからです。(KE)


8月20日(月)の聖言

2018年08月20日 | Weblog

「あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ。」使徒5:4c

  アナニヤとその妻サッピラは地所を売った代金を神様に奉げましたが、一部を誤魔化していました。ペテロはそのことを指摘して、どうして正直にしなかったのかと問いました。奉げものは自由意志ですから、誰からも強制されることなく、非難されるものではありません。それなのに、彼らは人の手前で見栄のためにしたのです。私たちの一挙手一投足はすべて神様に覚えられていることを知るべきです。人を騙しても神様を欺くことはできません。(KE)


8月18日(土)の聖言

2018年08月19日 | Weblog

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」ルカ6:38

 人は握ったものは手放さないように、持っているものは減らさないようにしようと保守的になります。それでは信仰に立つことができません。イエス様は私たちに与えなさい、空にしなさいと勧めます。そうすれば満たされ、溢れるようになるからです。神様は必ず報いてくださいます。(KE)


8月17日(金)の聖言

2018年08月17日 | Weblog

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩篇8:4

 なにゆえに神様に顧みられて今があるのでしょうか。神様から見れば、私たちは取り柄のない無価値なものです。この詩の表題に「ダビデの歌」とありますが、名もない羊飼いとして生まれたダビデが一国の王になるという事態は不思議としかいうことが出来ません。家柄も才能も学歴や身分によらず、ただ一方的な神様の選びと召しによったのです。彼の生涯を貫く神様への謙遜を私たちも持ち続けましょう。(KE)


8月16日(木)の聖言

2018年08月16日 | Weblog

「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」ヨブ22:21

 私たちは意識して神様と仲違いをしているとは思いません。しかし、造り主を忘れ、自分を神の如く唯我独尊としていること自体が神様への反抗です。それを罪と言います。その結果、自分の思い、計画に沿わないと怒ったり、失望したり、不安や心配が募るのです。そうであるかぎり、幸福にはなれません。まず、神様に立ち返って、罪を悔改め、主の十字架に示された神様の赦しとご愛を受け入れ、あなたの全てをゆだねることです。(KE)


8月15日(水)の聖言

2018年08月16日 | Weblog

「しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。」創世記4:5

 聖書を通して一貫していることの一つは、創造者と被造物、神様と人との位置関係をはっきりさせることです。「分を弁える」と言いますが、まさに神様に対して人としての分を守ることです。カインは明らかにこの一線を越えました。神様は絶対者であり、人は一言半句たりとも文句を言えるものではありません。ヨブも、マリヤも、そのことを身にしみて知ることになりました。あなたはいかがですか。(KE)


8月14日(火)の聖言

2018年08月15日 | Weblog

「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17:10

 神様が人を見る視点は顔かたちや、はでなパフォーマンスではなく、心深くに隠れた動機を探られます。また、様々な試練を通して私たちの思いを知ろうとなさるのです。ある意味で怖い話ですが、神様に真実に従い、赤裸々に自分をさらけ出しているなら、なにも恐れることはいりません。神様は私たちを知り尽くしてそれぞれに応えてくださるのです。(KE)


8月12日(日)の聖言

2018年08月12日 | Weblog

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3

 人は家族や友人、有力者や実力者などと言われる人たちに求めたり頼ったりしますが、神様は「わたしに呼び求めよ」と言われます。なぜなら、神様ほどの力あるかたは他にいないからです。万物を創造し、狂いなく運行させ、全ての中心である神様が、呼び求める者に「答える」ばかりか、それよりもっと大いなることを見せてくださるのです。神様の愛にあふれる招きに応じましょう。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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