「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」第二コリント4:7
神様は人を含めてすべての創造物を通して、ご自分の栄光をあらわそうとされます。ところが、人は自分の栄誉、栄光を求めて、神様を拒んでしまったのです。その中から、あなたを選んで救われたのは、あなたを通して神様の栄光を明らかにするためです。だから、神様の力、わざとしか言い得ない事態や状況に置かれるのです。(KE)
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」コロサイ3:23
どんなことにも、背後に動機が隠れています。事柄自体の良し悪しより、何のため、誰のため、それをしようとしているか、それが大切です。また、神様が問題にされるのもそのことです。自分の欲得のためであったり、人のためであったり、義理人情に操られたり、そうであるなら神様に喜ばれることはできません。イエス様のため、主のためにするとなると、そのわざは清いものとなり、主から報いを受けます。(KE)
「どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。」詩篇107:8
猛暑がつづいていると寒かった冬のことなど忘れています。気候変動はあっても、季節はまちがいなく移っていきます。これもまた主の恵みと言うほかありません。神様の確かな愛のみ手にありながら、それを忘れて、落胆し、無気力になり、スランプに落ち込みます。落ち込んだ心を持ち上げてくださるのは神様です。心を主に向けるには、主の恵みを振り返り、感謝することです。この夏の恵みを味わってください。(KE)
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10 イエス様の十字架は「死」と「いのち」の交差点です。主は私達の罪を負うてくださって、神様の刑罰を受けてくださいました。その結果が「死」です。言うならば私たちが死んだのです。後に、主は墓からよみがえって、新しい命の始まりとなりました。私たちもその命に生かされて生きるものとなりました。日々、キリストの死と一体化して、自分に死んで、よみがえりの命を頂き、生きる者となってください。(KE)
「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10
イエス様に救われたからと言って、苦しみや悩みがなくなるわけではありません。むしろ、多くなることもあります。しかし、それらの苦しみ悩みは、イエス様の救いによって、私たちを損なうためのものではなく、私達の益のため、「いやし、強め、力づけ、不動」にするためのものです。しかも、それは「しばらく」の期間です。(KE)
「あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。」アモス5:6a
私達は日々何を求めて生きているでしょうか。健康を、お金を、地位・名誉を、いろんなものを求めて生きようとします。それらが命の源だと思うからです。しかし、生きるため、命のために求めるべきものはただ一つ、「主を求めよ」だけです。神様には私たちが求める以上のものが、どんなものでも豊かに備わっているのです。しかも、主は気前のよい方です。求めるならば惜しみなく、豊かに溢れるばかりに与えてくださいます。(KE)
「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」イザヤ2:4b
平和を願い、国連本部の庭にこのみ言葉を題材にした彫像があります。しかし、この半世紀以上にわたって、戦争のなかった日は一日として世界にはありません。このみことばが成就するのは、全ての人が神様を畏れ敬い、神様に仲裁者となっていただくときです。それには「○○運動」も、「○○会議」も、役に立ちません。ただ、神様のわざを祈り求めることです。(KE)
「宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。」 列王上6:7
ソロモン王が手がけた神殿建設の記事ですが、実に不思議な話です。大きな建造物でありながら、道具を使う音がしません。静けさの中で工事が着々と進行していきます。これは聖霊の宮として造り上げられる私達の姿でもあります。主はいまも私達の内外をきよめ、整え、宮に相応しいものにしようと、物音一つ立てないで、わざを進めているのです。(KE)
「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。」第一ペテロ1:23
多くの人は何とか自分を変えたいと願っています。そのため、苦しい修行や自己改革のさまざまな方法を試みますが、自分の力ではどうにもなりません。ところが、イエス様の救いは人をつくりかえることです。その方法は神様の「みことば」を素直に信じ、従うだけです。神様の言葉は種のように命が秘められています。今日も、「みことば」の命を頂きましょう。(KE)
「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。」詩篇3:5-6
この詩篇の記者のように、心からの安心を得て休むことができれば、どんなに幸いなことでしょう。これほど確信して、神様に信頼したいものです。その秘訣は十字架を信じる以外にありません。それは愛するゆえに、あなたのためにたてられたものだからです。神様はあなたと共にいて、味方となり、全ての敵から守ってくださいます。主は常にあなたの側にあります。(KE)
「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。」箴言25:21-22
「敵に塩を送る」という故事がありますが、神様は罪人であり、敵であった私達のためにイエス様をこの世に送って、この事を実践してくださいました。それは私たちもまた同じように歩む模範を残されたのです。しかし、それを実行するには、神様が報いてくださることを信じなければできません。(KE)
「ペテロが言った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。」使徒3:6
「歩く」とは生活すること、生きることです。あなたは何によって生活していますか。多くの人は「金銀」に代表される生活の糧、お金や健康、仕事などによって生きていると思っています。そうである限り、いつまでも「生まれながら足のきかない男」と同じく、「施し」で生きるようなものです。自立した人として生きるにはイエス様の御心を生きる以外にありません。(KE)
「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」ルカ5:4
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」といわれます。漁をするにも沖へ出なければ得られません。しかし、沖へ出ても収穫があるかどうか、何の保証もありません。ただイエス様の言葉を信じて従うかどうかにかかっています。信仰もまた同様に、眺めているだけでは結果を得られません。みことばを信じて、今立っているところから、さらに沖へ出るとき、結果が得られます。(KE)
「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。」使徒10:15
ペテロは夢のなかで、さまざまな動物が入ったものが天から降りてくるのを見ました。神様は彼にほふって食べよと言われました。しかし、長年、清いもの、汚れたものと定められた律法によって生きてきたので、躊躇しました。私達の社会や生活にもさまざまな差別がはびこっています。しかし、すべての人は等しく神様の作品であり、「よいもの」です。そのなかに差別や偏見を持ち込むのは神様への反逆です。(KE)
「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。」詩篇40:5
私達は神様からどれほど沢山の恵みをいただいているか、はかり知ることができません。神様は絶えず私たちに目を留め、必要なもの、欠けたものはないかと心を配り、先々まで計画しておられます。だから、思い煩うことはないのです。あなたの生活に、家族に、仕事に、どんな事にも、「みわざ」と「みおもい」を探り知ってください。(KE)