よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

1月31日(水)の聖言

2018年01月31日 | Weblog

「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」ローマ6:4b

 イエス様が十字架に死んだのち、墓からよみがえられたのは罪と愆(とが)とに死んでいたものを十字架によって完全に滅ぼして、イエス様と同じようによみがえらせ、生きるようにするためです。よみがえったイエス様が新しいいのちとなって私たちのうちに宿っています。もはや一瞬たりともイエス様抜きに生きることはできません。(KE)

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1月29日(月)の聖言

2018年01月29日 | Weblog

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」箴言11:24

 世の中には功利主義なるものがはびこり、与えれば減り、惜しめば増えるものと思っています。しかし、決してそうではありません。空にすれば満ちてきますし、満杯であればそれ以上は入りません。すべてのものの供給者は神様であって、人の計算で測れる方ではなく、計算外の手をつかい溢れるばかりに満たしてくださいます。神様の報いを期待して、手の内を空っぽにする人を求めておられます。(KE)

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1月28日(日)の聖言

2018年01月28日 | Weblog

「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。」 詩篇40:5a

 神様の呼び名は別名“不思議”と言われています。それは人の思いもよらない事態や事をなさるからです。人の僅かな知恵や知識で理解し、納得できる程度の事しかできない方であれば、信じる値打ちがありません。不思議をおこなわれるゆえに神様です。また、私たちに対する愛に満ちたみ思いは親兄弟以上です。この方以外に信頼に足るべき方がほかにいるでしょうか。(KE)

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1月27日(土)の聖言

2018年01月27日 | Weblog

「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。」第一コリント10:23

 イエス様の十字架によって、肉なるものの力、サタンの支配から解放され、自由を得たのです。しかし、それゆえにこそ神様に応答する責任があります。求められる基準が変ります。自由を与えられたのは、自らの意思によって「益」となる道、「徳」を高める道を選択するためです。(KE)

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1月26日(金)の聖言

2018年01月27日 | Weblog

「彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。」使徒6:10

 ステパノは迫害をうけ殉教しましたが、その原因は海外から帰国したユダヤ人たちと論争して、彼らを論破したことです。彼の力は神様から与えられた霊の知恵を頂いていました。自分の持てるものを見ると、失望するしかありませんが、神様は知恵を与え、知識を増し加えることのできる方です。神様は知恵の無い者を選び、ご自身のわざを現されます。御霊に満たされて、神様の力を味わい体験してください。(KE)

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1月25日(木)の聖言

2018年01月25日 | Weblog

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19

 人は地位や名誉、仕事や学歴、家柄や才能、自尊心や優越感などなど、さまざまな衣装を十重二十重(とえはたえ)に着込んでいるため、自分の「本心」がどこにあるのかわからずにいます。人の「罪」は神様に対するものであって、着ているものとは関係なく、脱ぎ捨てて裸になった自分のありようです。とかく、外側のものに邪魔されて自分を見失ってしまいます。赤裸々な自分を知って、悔改め、許しの恵みを受けてください。(KE)

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1月24日(水)の聖言

2018年01月24日 | Weblog

「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」ヨハネ16:24

 私たちの祈りを神様が聴いて答えてくださるのは、イエス様の名によって祈るからです。父なる神様は御子のとりなしによる祈りに答えないはずはありません。また、それゆえに確信をもって祈ることができます。私たちの状態や功績に関係なく、ただ御子によるのですから。神様はあなたが喜ぶのを楽しみにしています。求めてください。(KE)

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1月23日(火)の聖言

2018年01月23日 | Weblog

「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。」ヨハネ3:36

 神様の救いは例外なくすべての人に開かれたものです。問題は私たちの側にあります。御子イエス・キリストを信じるのか、信じないのか、これはすべての人の決断にかかっています。信じるなら救われます。信じないなら、それ自体で滅びの生涯、裁きの下にあるのです。神様は決してご自分から私たちを滅ぼす方ではなく、人が自ら滅びの道を選んでいるだけです。(KE)

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1月22日(月)の聖言

2018年01月22日 | Weblog

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」ルカ16:10

 「忠実」とは人のあり方の問題であって、他人との関係ではなく、自分自身の値打ちを測るものです。事の大小によって自分のありようが変るとするなら、自分の値打ちが「事」によって計られているといえます。私達は創造者である神様に忠実であることを努めるのであって、事の大小に左右されません。ヨセフのごとく、どのような境遇にあっても、神様の前に忠実な歩みをしましょう。(KE)

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1月21日(日)の聖言

2018年01月21日 | Weblog

「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。」マタイ23:4

 「~すべきだ」と、困難な課題を人に押し付けて、強要するが、その課題を克服するために助けようとしない人をイエス様は指摘しています。こういうことは介護問題などを考えるとよくわかります。「あるべき」「すべき」と、建前を押し付けることは簡単です。また、自分の出来ないことを他人に求める場合も当てはまります。お互い気をつけたいものです。(KE)

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1月20日(土)の聖言

2018年01月20日 | Weblog

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」マタイ7:3
 
 「梁」とは屋根を支える横に渡した太い柱のことです。そんなものが自分の目にあるのに、それを取り除けようとせず他人の目にある小さな「ちり」を指摘する。このようなことはよくあることです。世間でも「人のふり見て、わがふり直せ」と言います。まずは自分を点検吟味することが大切です。お節介も過ぎると厄介です。また、それは自分は正しいとする偽善でもあります。お互い気をつけたいものです。(KE)
 

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1月19日(金)の聖言

2018年01月19日 | Weblog

「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」 ルツ1:16c

 ナオミには二人の息子がいて、それぞれに嫁を取りました。しかし、二人の息子は亡くなり、嫁とナオミだけになりました。ナオミの勧めによって一人の嫁は実家に戻りましたが、ルツだけはとどまりました。ルツはモアブ人でしたが、神の民の祝福を受けることを選びました。彼女の選択と決断によってキリストの系図にまで名を残す者となりました。ルツは神様を畏れ仕える道を選んだのです。あなたは何を選ぼうとしていますか。(KE)

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1月18日(木)の聖言

2018年01月19日 | Weblog

「主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。」列王紀上17:16

 預言者エリヤのとき、数年間雨が降らず、飢饉に見舞われました。神様は預言者エリヤをケリテ川のほとりで、カラスによって食料を備えて守ってくださいました。川の水が尽きると、ザレパテの婦人のもとへ遣って、その家族によって養ったのです。絶望的と思える状況でも、神様は出来ないことのない方、不思議な道を開かれます。神様は信頼する者たちを決して見放すことはありません。(KE)

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1月16日(火)の聖言

2018年01月16日 | Weblog

「ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。」サムエル記上1:15bc

 ハンナには子供がいませんでした。そのため、肩身の狭い思いをしていました。なんとか子供が与えられるようにと、神様に祈り続けました。この日も神殿で祈っていたのです。祈りはまさに「心を注ぎ出す」ことです。神様は私たちが祈り求めることを喜んでくださいます。また、祈りに答えてくださいます。ただ、信じて心の思いをすべて打ち明けることです。中途半端はだめです。(KE)

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1月15日(月)の聖言

2018年01月15日 | Weblog

「彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。」士師15:15

 大力サムソンの記事ですが、そもそも生まれながらに大力だったのではありません。このときも、「主の霊」が臨んで彼に力を注いでくれたのです。神様の力に満たされるとき、並外れた力を振るうことができました。神様から離れると、力が去ってしまうのです。デリラの誘惑に負けたとき、神様の力が抜けて、捕らえられました。私たちにも力がありません。サタンに勝つため、神様の力を求めましょう。(KE)

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十字架のイエス・キリスト

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