よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

7月31日(土)の聖言

2010年07月31日 | Weblog

「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」詩篇119:130

 「み言葉」とは神様の言葉、聖書の言葉のことです。聖書は長い年月にわたって多くの人々に神様が霊的な感動を与えて書かれたもので、神様のみこころを語ったことばです。これは哲人・賢人の言葉と違って、命を内包した種のようなものです。素直にみ言葉を心に受け入れ、信じ、従うとき、光がかがやき、闇を追いやり、万物の理を悟らせてくれます。また、学校教育などの知育では得られない人生諸般の知恵を得ることが出来ます。(KE)

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7月30日(金)の聖言

2010年07月30日 | Weblog

「そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる。」ダニエル4:37

 バビロンのネブカデネザル王は国が豊かになり、強くなるにつれて、慢心しました。王宮の屋上を歩きながら、自分の権勢、威光を誇ったとき、神様によって、彼は即座に王宮から追われて、世の人と離れ、落魄の憂き目に遭いました。しかし、そのなかから、彼は悔い改めて復権をはたしました。この貴重な体験をとおして、彼は神様を褒め称え、崇めたのです。まことに、厳に慎むべきは「高慢」です。ご同輩方々、ご用心ご用心。(KE)
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7月29日(木)の聖言

2010年07月29日 | Weblog

「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」Ⅰサムエル30:6

 ダビデは次の王になる信認を神様から受けましたが、在位中のサウル王は彼をなきものにしようとしました。ダビデは自分の身だけでなく、国が敵から攻められることにも対処しなければならない極めて困難な状況にありました。そのような時、アマレクびとによって、同胞や自分の身内も捕虜になったのです。彼は失望し、力を失いましたが、それでもなお神様にすがり、敵に当たる力を得ました。困難に遭うときこそ、力の源である神様に頼りましょう。(KE)


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7月28日(水)の聖言

2010年07月28日 | Weblog

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」エレミヤ17:9 

人の心ほど頼りないものはありません。自分の心でありながら、ころころと変わり、定まりません。それは心の拠り所が無く、浮き草のように感情や情動に流されているからです。絶対的な不動の岩である神様に心を掴んでいただくとき、どんなことにも動かされず安定します。また、神様に心を委ねると、それを清め整えて命を注いでくださいます。(KE)


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7月27日(火)の聖言

2010年07月27日 | Weblog

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」Ⅱコリント4:15 

「神の栄光」といわれると、なにかとてつもない事象のように思いますが、実はもっと身近なありふれたことです。「感謝が満ちあふれて」とあるように、感謝することが神様の栄光なのです。神様の作品である私たちが暗く、沈んで、不安げで、喜びも感謝もなければ、神様の名を汚すことになります。今日も、あなたは神様の栄光をあらわすものと期待されています。(KE)

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7月26日(月)の聖言

2010年07月26日 | Weblog

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」イザヤ49:15

 昨今のニュースによると、親が自分の子を虐待する事件が頻発しています。親が子を愛するのは自然なことではなくなりつつありますが、神様は子である私たちを決して忘れません。また、酷い虐待をするようなかたでもありません。私たちを訓練するために試練を与えられますが、それは愛によるものです。怒りや憎しみによるのではありません。(KE)
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7月25日(日)の聖言

2010年07月25日 | Weblog

「主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。」Ⅱサムエル8:6

「向かうところ敵なし」と言うほどの勢いを持って、ダビデは国を治めました。それはかれが知略に長けた有能な王であったからではありません。ダビデは平凡な羊飼いの末息子です。ただ、神様が彼に目をとめてくださったから、王となったのです。神様の恵みのゆえであることを決して忘れず、神様の御心を求め、従い、心から信頼しました。その真実な心に応えて、神様は彼に大いなる勝利を与えてくださいました。あなたも主の報いを求めませんか。(KE)
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7月24日(土)の聖言

2010年07月24日 | Weblog

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28 

最後の晩餐の席での記事です。この言葉の前に、「この杯から飲め」とあります。十字架に流されたイエス様の血によって、私たちの罪は完全にゆるされ、神様のものとされました。同時に、血は無罪放免の証書に刻印された血判でもあります。天地万物の創造者、全能の神様が私たちにこれほどの犠牲を払ってくださった事実を決して忘れてはなりません。神様は真実な方ですから、結ばれた約束を取り消されません。(KE)
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7月23日(金)の聖言

2010年07月23日 | Weblog

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ8:28 

「召された者たち」とは私たちのことです。神様は常に私たちと共にいて、働いて下さっています。願いを起こさせ、思いを与え、みこころを行っています。それによって私たちに感謝、讃美させ、喜びを与えるためです。神様はご自分の命を払って贖った私たちを悲しませ、苦しめ、失望させる方ではありません。(KE)
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7月22日(木)の聖言

2010年07月22日 | Weblog

「わたしに賜ったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。」詩篇116:12

 神様の恵みと言うとき、「棚からぼた餅」式の幸運な出来事を想像しますが、神様の恵みは私たちの人生全般にわたることです。ミクロな日常茶飯事から、マクロの大宇宙にいたるまで、神様のめぐみでないものはありません。残念なことに、日常生活にあって、私たちは感覚が鈍り、恵みであると感じられなくて不平不満、つぶやいているのです。良いことも悪いことも、すべて神様の恵みであると謙遜に認めて、全てを感謝しましょう。(KE)

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7月21日(水)の聖言

2010年07月21日 | Weblog

「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。」テトス3:9

 食卓での話題に宗教と政治は禁物といわれます。それほど人を感情的に激高させるものだからです。宗教戦争や宗派間の争いは古くから続いています。しかし、信仰は議論して優劣をつける種類のものではありません。信じるあなた自身のきわめて個人的な生き方です。しかも、言葉遊びや、観念の世界ではなく、具体的な現実の生活、行動に直結した力とわざが信仰です。(KE)
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7月20日(火)の聖言

2010年07月20日 | Weblog

「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」ピリピ1:29 

信心は自分に安心立命を与え、幸せになるみちだと思われています。たしかにそのとおりですが、しかし、それではまだ半分です。イエス様を信じる信仰は自分のために生きるのではなく、キリストのために生きることにあります。その結果、キリストのために苦難にも遭います。ただし、その苦難は私たちの魂を救い、喜びを与えてくれます。(KE)
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7月19日(月)の聖言

2010年07月19日 | Weblog

「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。」伝道7:3 

悲しいことや悩みにあうことは嫌なことです。なんとか避けようと努めますが、そのような不幸と思われる事態は決して無駄なことではなく、むしろ人を造りかえる大きな力です。悲しみや悩みを知らない人よりも、それらを通って、神様との対話を通して自分の内面を清くされた人々のほうが、はるかに美しく、深みがあり、魅力的です。だから、そのような事態に会うとき、逃げないで、避けないで正面から受け止めてください。(KE)
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7月18日(日)の聖言

2010年07月18日 | Weblog

「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」歴代下16:9

 神様が私たちに求めるものは一つ心です。神様だけに信頼し、求めるものを捜しておられます。しかし、私たちは二心、三つ心で、あれもこれもと手を伸ばすので、神様は失望されます。人と人との関係でも同様です。頼りにするのはあなただけと言われるとき、無力な者であっても何とかしてやろうとします。そのような混じりもののない心を神様は求めておられるのです。(KE)
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7月17日(土)の聖言

2010年07月17日 | Weblog

「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」詩篇104:24 

天地創造のわざは今もなお繰り返されて続いています。私たちの目にするもの、手でさわるものなど全てが神様のわざによるのです。それらは人の知恵や知識を越えた摂理によって存在しています。人は“どうして”と問いますが、答えを得ることができません。なぜなら、神様のわざだからです。不条理に思える現実も神様の造られたものです。(KE)

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十字架のイエス・キリスト

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