よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

4月30日(金)の聖言

2010年04月30日 | Weblog

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」Ⅱコリント4:15 

人は自分勝手に事の良し悪しを決めます。しかし、全てのことを起こし、導き、完結されるのは、人の力やわざ、知恵によるのではなく、神様のなされることです。それを認めるなら、どんなことも「益」でないものはありません。神様はそれによって私達に感謝させようとなさるからです。感謝こそが神様の栄光だからです。(KE)
コメント

4月29日(木)の聖言

2010年04月29日 | Weblog

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。」イザヤ38:17

 ヒゼキヤ王は病気になって、死を宣告された時、涙を流して神様に祈りました。神様はその祈りに答えて、命を長らえさせてくださいました。その時の喜びを歌った一節です。彼は死を目前にするような大病の中から救われたことは幸いでしたが、何よりも彼にとって幸いなのは、神様は祈りに答え、憐みゆたかな方であると知ったことです。苦しみは嫌なことですが、それによって神様に触れる体験、これはなにものにも代える事が出来ません。(KE)
コメント

4月28日(水)の聖言

2010年04月28日 | Weblog

「主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られる。」箴言16:4 

どんなものも造られた目的があります。私たちも同じです。それぞれに与えられた使命がありますが、それが何であるか、造物主である神様だけが知っておられます。それを知るには神様に聞かなければなりません。しかし、神様のご計画、み思いはあまりに大きく、複雑ですから、私たちの知恵や知識で測り知ることは到底できません。ただ、聖霊、神様の霊が教えてくださいますから、へりくだって神様に伺いましょう。(KE)
コメント

4月27日(火)の聖言

2010年04月27日 | Weblog

「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。」詩篇63:1

 この詩篇は表題にダビデの歌とあります。彼は先王サウロに命を狙われ、逃避行をしていました。恐らく、絶えず不安と恐れがあったことでしょう。彼にとって唯一の慰めは神様との交わりです。しかも、この神様は誰のものでもない、「わたしの神」なのです。この確信は彼を不動のものとします。私たちも誰にもはばかることなく「あなたはわたしの神」と告白し、堅く信頼しましょう。(KE)
コメント (2)

4月26日(月)の聖言

2010年04月26日 | Weblog

「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」詩篇139:23-24 

自分のことは自分が知っていると豪語します。しかし、これほど身近な存在でありながら、自分のことがさっぱり分からない。それを知っておられるのは、創造者なる神様以外にありません。だから、自分の知識に頼らず、神様に教えていただく謙虚さを常に持とうではありませんか。(KE)
コメント

4月25日(日)の聖言

2010年04月25日 | Weblog

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33

神様の救、罪の許しは何ひとつ欠けたところのない完全なる救です。神様は多
くの人々の中から、あなたを選び、この大きな恵を与えておられます。しかし、現実の自分の姿、行動をみるとき、出来ていない、不足ばかりが目につき、こんな状態で救われたのだろうかとささやく声が聞こえてきます。ダメな自分だと卑下することは奥ゆかしく聞こえますが、信仰においては失格です。現実がどうであれ、神様の救を確信してください。(KE)
コメント

4月24日(土)の聖言

2010年04月24日 | Weblog

「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる。」箴言21:1

 我がままで手のつけようのない人物は王様でしょう。専制君主です。心のまま、思いの向くまま生殺与奪の権を振り回すから、危険です。そのような人の心すら、神様の手に握られているのです。頑固この上ない人にも、神様がみ手を動かされればどんなにでも変ります。ですから、説得して人を動かそうとしても出来ませんが、神様に祈り求めて、神様に動かしていただくのが最善な道です。(KE)
コメント

4月23日(金)の聖言

2010年04月23日 | Weblog

「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」ルカ21:19 

信仰に生きる生涯は、事情・境遇など、生活環境や状態がより良くなることではありません。勿論、それも願わしいことですが、私たちの求めるものは「永遠の命」、魂の救いを得ることです。そう言われても、何のことが分かりませんが、あえて言い換えると「究極の安心」を得ることです。そのために必要なのはイエス様を信じてどんなことにも耐え忍ぶのです。神様は必ず「究極の安心」、魂の救いを与えてくださいます。(KE)
コメント

4月22日(木)の聖言

2010年04月22日 | Weblog

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」マタイ4:1 

イエス様はヨハネによってバプテスマを受けられた後、救い主としての使命に導かれます。その最初が荒野の誘惑です。それは私たちも神様に仕える者になるために通らねばならない道を示すためでした。主の十字架の恵によって救われた者たちが、その恵を具体的に体験する過程で出会う試練です。それは神様の深いご愛のご計画であって、いじめて苦しめようというのではありません。むしろ、みことばによる神様の力を味わい知るためです。(KE)
コメント

4月21日(水)の聖言

2010年04月21日 | Weblog

「そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。」マルコ6:46

イエス様はこの世に在りし日々、一時も休む間なく忙しくしておられました。しかも、イエス様を求める多くの人々が絶えず回りにいました。しかし、そのような中で、時折、主は人々を避けて父なる神様との交わり、祈りの時を得ていました。これは現代社会に生きる私たちへの生き方を示唆する言葉ではないでしょうか。日々、忙しく休む間もありませんが、その中にあっても、僅かな時間であっても静思のとき、神様に祈るときを確保することが大切です。(KE)
コメント

4月20日(火)の聖言

2010年04月20日 | Weblog

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」ルカ18:13 

神様が求めておられるのはどのような人であるか、イエス様が話された譬えです。人は他者に対して完全で、不足のないことを期待し要求します。しかし、自分を義人だと自認する人ではなく、自分の罪を認め、神様の赦しをねがう人です。そのような人は、自分の弱さを克服し、変わりたいと切に願います。神様はそれに応えてくださいます。(KE)
コメント (2)

4月19日(月)の聖言

2010年04月19日 | Weblog

「そして約40年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、…」使徒13:18 

神の民はエジプトから救い出されて、約束の地カナンを目指して旅をしました。いよいよカナンの地というところで、神様に背き、さらに40年の荒野の旅を続けました。考えるととてつもない年月です。広いと言ってもシナイ半島ですから、人の計画でやれば数年も掛けずに終わるものでしょう。まさに神様の訓練であったといえます。神の民を清め、整え、育ててくださったのです。私たちの日々も同様に神様の教育がなされているのです。(KE)
コメント

4月18日(日)の聖言

2010年04月18日 | Weblog
 
「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」Ⅱテモテ2:1

 誰でも強くなりたいと願います。それは常に自分が弱いことを知っているからです。そのため知力、体力、金力、政治力、学力など、いろんな力を求めます。しかし、それらは一時しのぎになりますが、外側から貼り付けた力なので、事にあたると脆くもはがれてしまいます。自分の内側から沸いてくる力こそ、本当の力です。それは私たちがキリストのものとなりきってしまうことです。(KE)
コメント (4)

4月17日(土)の聖言

2010年04月17日 | Weblog

「『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」伝道1:10 

人の世の様々な事象は常に繰り返されているものばかりです。世間で新しいといわれるものも、過去の例を探れば似たもの、それらしきものはすでにあったことです。ただ、神様のなさることは人の思いを越え、想像を越えたことです。神様らしいわざをなさって、私たちを驚嘆させ、神様を崇めさせるのです。思いがけないこと、予期しないことが起る時、まさに神業です。(KE)
コメント

4月16日(金)の聖言

2010年04月16日 | Weblog

「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならい。」申命記6:18

 人はとかく自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことを基準にして生活します。その結果、人を裁き、批判し、判断が恣意的になり、支離滅裂になってしまいます。「主が見て」という視点で判断し、行動するなら、他者がどうであろうと気にならず、また、自分のすることに自身が持てます。「主が見て」などという曖昧な基準では得手勝手な行動になると思われがちですが、決してそうはなりません。神様の霊が導いてくださるからです。(KE)
コメント

十字架のイエス・キリスト

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/EjJNEsDJPFk" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>