よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

12月31日(木)の聖言

2009年12月31日 | Weblog

「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12 

今年も今日で終わります。一年を振り返ると、どんなに大きな恵みであったかと神様に感謝するほかありません。また、良いことも、悪いと見えることも、すべては神様が備え、導かれたことばかりです。サムエルのように、感謝の石塚を立てて、来る新しい年を主のみ手に委ねて、主の栄光の道を歩みましょう。(KE)

12月30日(水)の聖言

2009年12月30日 | Weblog

「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」創世記45:5

 神様のご計画、みわざはいかに大きなものでしょうか。ヨセフは兄弟の反感を買い、売られてエジプトへ来ました。その後、さまざまな苦難を経てエジプトの宰相となり、飢饉のため苦しむ家族を救う先立ちとなったのです。ヨセフは神様のみ手を信じて、置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました。すべてのことを導かれるのは神様であると信じたからです。(KE)

12月29日(火)の聖言

2009年12月29日 | Weblog

「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14 

自分のことはなんでも自分で決定できるかのように錯覚しています。実際は何ひとつ確実なものはありません。創造者なる神様のみ手に支配されているからです。明日が、来年がどんな日になるのか、皆目分りませんが、神様は明確な目的と計画で私たちを導いておられます。主がなさるわざを信じてゆだねようではありませんか。(KE)

12月28日(月)の聖言

2009年12月28日 | Weblog

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」Ⅱペテロ3:9

 始まりがあれば、必ず終わりもあります。この宇宙も、世界も、やがて滅び失せるときがきますが、それがいつであるかわかりません。ただ神様の思いはすべての人々が救われることを願って、その時を忍耐して待っておられるのです。主のみ思いを無駄にしないで、主のご期待に応えようではありませんか。(KE)

12月27日(日)の聖言

2009年12月27日 | Weblog

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」ヘブル12:14 

「きよい」状態はどんなことでしょうか。簡単に言えば、混じりけがない、純粋であることです。それを人のこころに当てはめてみると、言葉と行動、思いと言葉がちぐはぐで、雑多な感情や情念にかき乱されているとき、「きよい」と言えません。試練と言われる困難や苦しみ、悩みを通るとき、不純物、汚れたものが心の内外から削り取られます。試練を逃げないで、自分を磨きましょう。(KE)

12月26日(土)の聖言

2009年12月26日 | Weblog

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26 

イエス様の救とは私たちを「神の子」にしてくださることです。私たちは肉親としての父親しか知りませんでしたが、天地万物の創造者であり、全能の神と言われる方が私たちの「父」となってくださることでもあります。神様を「お父さん」と呼ぶことが出来、この方に信頼して依り頼めば、どんなことでも出来ないことはありません。「神の子」であること信じ、「父なる神」を言葉どおりに信じようではありませんか。(KE)

12月25日(金)の聖言

2009年12月25日 | Weblog

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」ルカ2:11 

クリスマスおめでとうございます。私たちのために「救主」が生まれてくださったとの知らせはなんと大きな喜びでしょうか。この方によって救われないものは何ひとつありません。絶望、悲しみ、恐れ、不安、憤りなど、自分ではお手上げのどんな問題であっても、そこから救い出してくださるのはこの方です。神様によって油注がれ、立てられた救済者イエス様を信じ、救を体験してください。(KE)

12月24日(木)の聖言

2009年12月24日 | Weblog

「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』。」ヨハネ1:29 

三人の博士が飼い葉桶に寝かされた幼子に宝物を奉げて礼拝しました。その一つは没薬です。これは死者を葬るときに用いられるものでした。生まれたばかりの幼子がすべての人の罪を負い、生贄となって神様の刑罰を受け、葬られることを語っています。なんと悲運な生を受けたのでしょう!それはただ私やあなたの罪を一切清めるためです。主のご降誕を厳粛に、重く受け、心からの感謝を奉げましょう。(KE)



12月23日(水)の聖言

2009年12月23日 | Weblog

「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」ルカ1:49

 マリヤの人生は思い描いたものとはかけ離れた破天荒な事態となりました。しかし、彼女同様、すべての人の人生は創造者なる神様の御手に握られ、造り出されています。確かに、自分の計画や願いどおりに進む事態もありますが、その人の努力や知恵で成し遂げたものではなく、神様がそうなるように許してくださったからです。マリヤは自分の身に起ったことを通して、神様に触れたのです。神様はあなたにもマリヤの喜びを与えようとしています。(KE)

12月22日(火)の聖言

2009年12月22日 | Weblog
「しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。」マルコ5:19 

悪霊につかれた人がイエス様によって癒されました。彼はイエス様について行きたいと願いましたが、主は拒みました。主が彼に求めたのは、神様がどのように自分に働いてくださったか、何をしてくださったかを告白することです。神様が私たちをどのように用いておられるか、神様のみわざを語ろうではありませんか。(KE)

素敵な画像は「PRAISE MIDI MUSIC」より みんな神さまのものですからご自由にお使いください と快諾下さいました 感謝します。

12月21日(月)の聖言

2009年12月21日 | Weblog

「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」ルカ1:45 

マリヤは御使の言葉を聞いて、想像を超えた事柄だったので、受け入れることができません。しかし、それが神様のみこころであること、神様がなさることだと信じたとき、自分をまったく捨てて、神様の手に委ねました。その瞬間から、彼女は自分になされた神様のわざを喜ぶことができました。これはマリヤだけのことではありません。私たちも与えられた問題、置かれた境遇のなかで、主のみことばを信じるとき、さいわいになります。(KE)

12月20日(日)の聖言

2009年12月20日 | Weblog

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」出エジプト13:21 

神の民がエジプトを出て、荒野の旅路を進んでいるとき、神様は常に彼らと共に歩んでくださいました。「雲の柱」「火の柱」は神様の臨在をあかしするしるしです。私たちにはそのようなものはありませんが、その代わりにみことばが与えられています。みことばを常にこころにおいて、それに従うとき、私たちは神様と共に生きることができます。(KE)

12月19日(土)の聖言

2009年12月19日 | Weblog

「ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」ルカ11:41 

最新流行のファッションで身を飾り、高価な化粧で美しくしても、その内なる心が怒りや、妬み、思い煩いなどに満ちているなら、空しいことです。大切なのは中身です。外側はどんなにでも取り替えることができますが、内側は自分の力ではどうにもなりません。十字架にあらわされた神様の愛に満たされ、絶えずみことばの光に照らされて自らを清めようではありませんか。(KE)

12月18日(金)の聖言

2009年12月18日 | Weblog

「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」Ⅰコリント10:13 

試練にあるとき、自分だけが苦しんでいるという孤独感と、この状態から逃れられないという閉塞感が試練を増大させます。しかし、神様はそのような酷い方ではありません。限りない愛を注いでいるとの約束を真実にまっとうしてくださる方です。神様のご愛を信じましょう。(KE)

12月17日(木)の聖言

2009年12月17日 | Weblog

「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」マタイ10:29 

「一アサリオン」は日本円で幾らになるか分りませんが、いずれにしてもとても安く、値打ちのないものと言われています。そのような「すずめ」でも、神様の目には大切な存在であり、み手のなかで生かされているのです。ましてや、私たちも神様のみ手に守られ、持ち運ばれ生かされているのだから、神様のみこころに委ねましょう。思い煩うことはいりません。(KE)

十字架のイエス・キリスト

<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/EjJNEsDJPFk" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>