よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

11月30日(月)の聖言

2009年11月30日 | Weblog

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10 

ニネベの人々の神様を離れた悪い道のゆえに、預言者ヨナは神様の裁きを伝えるために遣わされました。ニネベの人々は彼の警告を聞き、王様をはじめ全ての人々が悔改めました。神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです。神様は実に豊かな赦しとあわれみに富む方です。私たちも絶えず神様の憐みにすがって、赦しを味わいましょう。(KE)

画像は 「時・空写真館」様より
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11月29日(日)の聖言

2009年11月29日 | Weblog

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27 

「主」とは中心、根源などの意味を含むことばです。いうならば、全ての始まり、中心は神様であるという宣言です。人は自分が人生の「主」だと思っていますが、そうではなく、神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです。しかも「できない事」がない方です。この神様があなたを生かし、持ち運び、人生を終わらせるのです。神様の大能のみ手の中で、限りない愛によって生かされている幸いを感謝しましょう。(KE)
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11月28日(土)の聖言

2009年11月28日 | Weblog

「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。」箴言30:8

これは人が生きるうえの必須条件ではないでしょうか。世間 は「うそ、偽り」で塗り固められています。その中にあって、人の心を探り知り、公平に裁かれる神様を前に、うそ、偽りなく生きるのは至難の技です。しかし、神様の力にすがるときそれをまっとうすることができます。また、必要なものを、必要なとき、必要なだけ満たしてくださるのも神様です。この二つを祈り求めましょう。(KE)
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11月27日(金)の聖言

2009年11月27日 | Weblog

「その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』。」マルコ9:24 

息子の病気を癒していただきたいとイエス様のところに来ました。父親は「できますれば」と願いましたが、主は信じるならどんなことでもできると答えました。神様に求めるにあたって、出来なければ仕方がないというなら、それだけのことで終わります。しかし、たとえ不信仰であっても、主の憐みにすがって求めるなら、主はそれに答えてくださいます。問題はいかにへりくだり、どれほど切実に求めるかにかかっています。(KE)
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11月26日(木)の聖言

2009年11月26日 | Weblog

「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27

 人生を受身的に生きるのか、能動的に生きるのかによって生きがいが違ってきます。人生にはいろいろな事が次々と起ってきます。願わしいこともあれば、嫌なこともあります。しかし、なにがあっても、すべてのことについて、自分が生きているのはこの事のためである、あるいはこの時のためであると、積極的に受容し、そこに生かされている目的を置くならば実に充実した日々を送ることができます。(KE)
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11月25日(水)の聖言

2009年11月25日 | Weblog

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」詩篇23:1-3 

羊を飼育する様子を身近に見ることができませんが、神様と私たちは羊飼いとその養われる羊との関係にあります。羊飼いがいなければ羊は命をまっとう出来ません。また、正しく生きることも出来ないのです。今日も、神様の牧場にある羊となりきって、導かれるままに従いましょう。(KE)
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11月24日(火)の聖言

2009年11月24日 | Weblog
 
「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。」哀歌3:21 

人は望みがなければ生きることができません。それゆえ、どんなに困難や苦難があっても、なにかにすがって一縷の望みを持とうとします。“溺れる者は藁をも掴む”とはそのようなことではないでしょうか。しかし、如何せん「藁」ではどうにもなりません。ついには絶望です。この聖言は人が何に望みを置くべきかを語っています。「この事」とは神様の慈愛と憐みです。なにがあっても、とことん神様の愛を信じ続けることです。(KE)
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11月23日(月)の聖言

2009年11月23日 | Weblog
「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14 

ところが「悪」は魅力的で、人はそれに惹かれやすいものです。しかし、長い目でみるなら、悪は必ず滅びです。一方、「善」とは神様が喜ばれるものですが、地味で、見栄えも悪く、魅力がありません。しかし、実は命と力と望みを与えてくれます。なぜなら、善を求める者と共に神様がいてくださるからです。善を求めて生きようではありませんか。(KE)
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11月22日(日)の聖言

2009年11月22日 | Weblog

「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません。」エレミヤ16:10 

聖書の初めにある創世記には、神様が居られたから森羅万象が創造されたと語られています。人は神様によって造られたもの、被造物です。だから、神様を造るなどは言語道断です。ただ、被造物である私たちは創造者なる神様を知ろうと求め、願わなければ神様を知ることができませんし、知らないままに人生を終わることもできます。しかし、神様を知らなければ、人は自分がどのような者であるかを知ることができないのです。(KE)
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11月21日(土)の聖言

2009年11月21日 | Weblog

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」詩篇126:5 

農作物を育てるには大変な苦労を伴いますが、すべての始まりは種をまくことからです。種を蒔かずに収穫はできません。また収穫するまでには風雨炎暑に耐え、施肥、除草、防虫など休む間なく作業が続きます。そこを耐え忍んでやがて実を刈り取るのです。信仰も同じです。みことばを信じて、一心に主を信頼し続けるなら、時いたって、結果が出ます。その間に様々なサタンの妨害が起りますが、忍耐した者だけが収穫し、喜びを味わいます。(KE)
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11月20日(金)の聖言

2009年11月20日 | Weblog

「主よ、あなたはわたしを知り、わたしを見、わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。」エレミヤ12:3

 私たちは神様に造られたものですが、神様は操り人形のように造ったのではありません。私たちに自由意志を与え、自らの選択と決断によって神様を敬い尊ぶことを願っています。ですから、神様は常に私たちの心がどこを向いているか、絶えずチェックしておられるのです。愛する人は相手がどこを見ているか気になるのと同じです。それほどに、神様はあなたを愛しているのです。あなたはいかがですか。(KE)
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11月19日(木)の聖言

2009年11月19日 | Weblog

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」マタイ4:1 

イエス様はヨハネによって洗礼を受けられたのち、荒野にあってサタンの試みにあいました。それは父なる神様のご計画によるものでした。救われたら苦しみや悩みがなくなると期待しますが、そうではありません。この世にある限りそのような悩みから逃れられませんが、ただ、苦しみや悩みの意味が違ってきます。むしろ試練といわれることを通して、神様の祝福と恵をうけることができるからです。イエス様も同じ体験をしました。(KE)


画像は「空・時 写真館」様より
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11月18日(水)の聖言

2009年11月18日 | Weblog

「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。」Ⅰテサロニケ4:7 

神様の救は全ての人々に開かれたものですが、実際に救われる人は僅かな人々です。その数少ない中に、私たちが招かれたとはまことに不思議というほかありません。しかし、それにははっきりとした目的があります。私たちを清めて、神様の性質に似るものにしてくださるためです。それによって神様の栄光があらわされます。この選び召された恵を無駄にすることなく、神様の御心にかなうように造りかえられましょう。(KE)

画像は「時・空写真館」様より
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11月17日(火)の聖言

2009年11月17日 | Weblog

「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。」Ⅰペテロ1:13 

イエス様の救とは生まれながらの生き方を捨てて、神様によって生きる者となることです。それは人間的な努力や修行、鍛錬などで得られるものではなく、ただ神様の言葉である聖書を信じるだけです。聖書を通して語られる言葉は世間一般の単なる言葉ではなく、そのなかに命が宿った種のようなものです。素直に信じ、心に受け入れるとき、あなたの心に命が働き始めます。(KE)
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11月16日(月)の聖言

2009年11月16日 | Weblog

「あなたがたは、主キリストに仕えているのである。」コロサイ3:24

 イエス様を信じて、その救を受けた私たちは何ものにも支配されない自由を与えられていますが、それはキリストに仕えることによって得られるものです。イエス様を主と崇めて、そのみ声に従うとき、自由な生き方が全うされるのです。自分の思いのまま、心のおもむくままに生きるのが自由ではありません。そこは様々な力に引き回される奴隷の生涯と言うほかありません。この世にありますが、あなたの主はキリストであることを忘れないで下さい。(KE)
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十字架のイエス・キリスト

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