よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

5月31日(水)の聖言

2017年05月31日 | Weblog

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24

 地震や大雨による被害が伝えられています。思いがけないときにとんでもない災害が起ります。しかし、そのとき、いろんなものの真価が問われます。人生においても同じです。事もなく順調なときには皆同じに見えますが、ひとたび問題にぶつかると、揺さぶられ崩れます。何を拠り所にしているか、その土台が何であるかによって結果が出ます。あなたの土台は大丈夫ですか。(KE)


5月30日(火)の聖言

2017年05月30日 | Weblog

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」マタイ6:3

 左右の手は最も近い関係にあるものでしょう。双子のような関係でしょうか、いろんなことを共有します。そのような密接な関係であっても、「知らせるな」と言われます。それは目に見えない神様を信頼するためです。人に知られて、賞賛され、褒められると、神様からの報いをいただけません。信仰に生きる生活は神様の報いを体験することです。人間的な関係を捨てて、神様と私の関係に生きようではありませんか。(KE)


5月29日(月)の聖言

2017年05月29日 | Weblog

「主の使は彼に言った、『わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか』。」士師13:18

 神様の名は「不思議」です。まさに、その名のごとく、人が感嘆の声をあげて、「不思議だ!」と言うほかないことをされます。浅はかな知恵しかもたない私たちが想像できることしかできないなら、神様とは言えません。人の意表をつき予測しがたいことこそ「神様らしい」のです。神様が事を起し、わざをなさるのですから、身近な自分を含め、理解しがたいのは当然です。(KE)


5月28日(日)の聖言

2017年05月28日 | Weblog

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」第二コリント4:15

 「神様の栄光」を現すなどと言うと、大変なことだと思ってしまいます。何をすればいいのかと戸惑いますが、実はとても簡単なことです。みことばにあるように神様の恵みを感謝することです。しかも、そこそこの感謝ではなく溢れるばかりに感謝するとき、それが神様の栄光となるのです。あなたが神様を褒め称え、感謝讃美することを願っておられます。(KE)


5月24日(水)の聖言

2017年05月24日 | Weblog

「『昔が今よりもよかったのはなぜか』と言うな。あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。」伝道7:10

 今を楽しめない、喜べない人生は、たとえ過去がどんなに良くても惨めなものです。人は過去に生きるのではなく、今を生きるものだからです。今が人生最良の日だと言えるなら、どんなに幸いなことでしょう。そのためには全てのものを創造し、力あるみ手で導かれる神様を知り、また、神様が限りない愛を注いで、今日の私を生かしてくださることを信じて、主に感謝することです。(KE)


5月23日(火)の聖言

2017年05月23日 | Weblog

「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』。」マタイ16:23

 この言葉の直前にペテロはイエス様からその信仰を賞賛されましたが、ここでは「サタン」と言われています。「悪魔」とも言いますが、サタンは天使のようにやってきます。しかし、天使は私たちの心と思いを神様へ導きますが、サタンは逆に引き離そうとします。両者は私たちのうちにも潜んでいます。今、あなたはどちらの側に立っていますか。(KE)


5月22日(月)の聖言

2017年05月22日 | Weblog

わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」ヤコブ1:2

 これはまた奇妙なことばです。「試練」に会うことを喜ばしいと言うのですから。確かに、試練は嫌な事、不幸なことと思います。しかし、試練によらなければ得られないものがあります。神様は人に多くの可能性を与えてくれました。まるでダイヤの原石のように。手が加えられなければいつまでも変りませんが、試練を通して磨くほど輝き、値打ちが出てきます。だから喜ばしいのです。(KE)


5月21日(日)の聖言

2017年05月21日 | Weblog

「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」第二コリント6:2b

 ニュースを見ると、多くの思いがけない事件や災害が頻発しています。世の終りが近づいていると言うほかありません。しかし、どのような事態に置かれていても、今は「恵みの時」「救いの日」であると言われます。なぜでしょうか。それは神様の救をうけ、祈りが聞かれる時だからです。自分の身に及ばなかったからよかったではなく、何が起っても大丈夫という心の備えをする時が与えられているのです。今こそ、真剣に生きるときではないでしょうか。(KE)


5月20日(土)の聖言

2017年05月20日 | Weblog

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』。」マルコ10:27

 私達は弱く小さな者にすぎません。そのため、できない事が多く、いらだったり落胆したりしますが、それは間違いです。まず、「人には出来ない」ことを認めなければなりません。ゼロです。今、何か出来ることがあれば、それは神様がさせてくださるからであって、私ではありません。「なんでもできる」神様によって必要なものを備えられ、与えられているのです。不足を言わず、主に感謝したいものです。(KE)


5月19日(金)の聖言

2017年05月19日 | Weblog

「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」イザヤ65:1

 神様は隠れたところにいて、私たちが自発の心で求め、探すことを願っています。日々の生活の場は様々なことに満ちています。「こんなところに?」と思われるなかに、神様は隠れておられます。今日も、神様を探し、見出してください。きっと思いがけない事に潜んでいますから。(KE)


5月18日(木)の聖言

2017年05月18日 | Weblog

「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」黙示2:4

 「喉もと過ぎれば熱さ忘る」と言われるように、何事でも最初の感動や恐怖など、時が過ぎると忘れてしまうものです。それもまた幸いなことでもありますが、忘れてはならないことがあります。殊に、神様のご愛を知り、救われた喜びと感謝は決して忘れてはなりません。花嫁のときの新鮮で初々しい思いを主に対して持ち続けたいものです。焼き冷ましの餅のような、固く、無感動な心を砕いて、喜びを新しくしましょう。(KE)


5月17日(水)の聖言

2017年05月17日 | Weblog

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ4:13

 聖徒パウロは肉体的な弱さを持っていました。そのため、神様に強くして欲しいと願っていました。やがて、自分の弱さを通して神様の力があらわれることを知りました。弱くて知恵も無く、小さな私たちにも、必要なときに神様の絶大な力が注がれれば出来ないことはないのです。どのような高級車であっても、ガソリンがなければ走りません。日々、神様からの力を与えられて生きようではありませんか。(KE)


5月16日(火)の聖言

2017年05月16日 | Weblog

「銀から、かなくそを除け、そうすれば、銀細工人が器を造る材料となる。」箴言25:4

 鉱石から金属を取り出しただけでは不純物が多くて役に立ちません。それをさらに丹念に精錬して「かなくそ」(不純物)を取り除くと、素晴らしい材料となります。神様は私たちを神の作品に造ろうとしておられます。素材が良くないと良い結果が得られません。そのため、私たちを精錬し、鍛え、神様の意に適ったものとしようと、さまざまな事の中を通しておられます。絶えず、自分を顧みて、取り除くべきものが何かを自覚しましょう。(KE)
 


5月15日(月)の聖言

2017年05月15日 | Weblog

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」ヨハネ15:9

 神様はひとり子のいのちをも惜しまないほどに、私たちを愛しておられます。そのような神様は私たちに悪しきことをなさるはずがありません。それどころか、「愛のうちに」いなさいと言われます。幼子が母の胸に安らいでいるように、主の愛を信じて、安らかに、喜んで、くつろいで、愛の手に任せましょう。(KE)


5月13日(土)の聖言

2017年05月13日 | Weblog

「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される。」ホセア6:3

 何事でも知ろうと求めなければ得られません。神様を知るにも積極的に求めなければ知ることが出来ません。また、知識として頭で知ることと、体験的に知る方法とがあります。しかし、神様については知識として知っても役に立ちません。毎日の出来事をとおして、神様に手で触れ、交わり、味わうことで深く主を知りたいものです。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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