「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」ルカ19:10
「人の子」とは主イエス様のことですが、「失われたもの」はあなたのことです。神様によって造られ、神様の所有であった私たちが持ち主を離れて行方不明になっているからです。事の善し悪しが分からず、自己中心でわがまま。創造者の意図を損なった存在です。失われていたあなたをイエス様が救って下さるのです。イエス様を素直に信じて主の救いを受けてください。(KE)
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。」イザヤ65:17
神様の創造のわざは今日も続いています。夜が明け、新しい日が始まり、神様はあなたを生きる者として下さっています。昨日までのことは全て消え去って、新しい天と地が始まるのです。主はこれまでの事を全く忘れて、あなたに恵みを与えられます。あなたも後ろのものを忘れ、前に向かって主を見上げて前進して下さい。(KE)
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」第一ペテロ2:23
死にいたるまで従順であられたイエス様の姿です。「正しいさばきをするかた」をしっかりと見つめて生きること、これが私たちの倣うべきことです。感情や情動にまかせて損得・利害に振り回されているかぎり、主の救いに生きることは出来ません。今日、あなたは何を見ていますか。心の目をひらいて、主を見上げつつ、イエス様に倣う者となってください。(KE)
「あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。」伝道11:5
自分の無知を知るのは賢いことです。そうなると知りたいとの願いが起きて、すべてのことが新鮮で、驚きと不思議を素直に楽しむ事が出来ます。自分は知っていると思うとき、高慢になり、新しいことを受け入れられなくなります。神様は変幻自在にわざをなさる方です。それらをすべて知り尽くすことはできません。(KE)
「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、」エペソ3:20
わたしたちが願うことは小さな頭で考えたことであって、先のことまで見通した結果ではありません。それを忘れて、自分の考えが絶対正しくて間違いないと思っています。神様はすべてのことを知り尽くして、あなたに最善をしておられます。今日も自分の浅はかな考えに固執せず、主の導きにゆだねましょう。(KE)
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」ガラテヤ6:7
「侮る」とは「軽くみる」、「尊ばない」ことです。神様は目に見えず声も聞こえないので、まるでいないかのように思ってしまいます。そのため、神様を忘れ、軽んじて、自分の欲情にかられて生活するようになります。しかし、神様は決して無能無力な方ではありません。それどころか、全てのことを見ておられ、必ず報いなさる方です。私達の一挙手一投足ことごとくが知られているのです。(KE)
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「主は旗をあげて遠くから一つの国民を招き、地の果から彼らを呼ばれる。見よ、彼らは走って、すみやかに来る。」イザヤ5:26
まもなく待降節を迎え、イエス様の御降誕を記念し祝うときとなります。主は私達の罪のゆえに、神の位を離れて世に来てくださいました。その目的は十字架の死です。それによって罪の完全な許しを完成し、イエス様を救い主と信じ従う人々を一つの民としてくださったのです。十字架を掲げて「旗」とされました。この旗を見上げて主の御許に勇んで集い、主のご降誕を心から感謝しましょう。(KE)
「あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。」箴言4:25
日本人は相手の目を見て話をするのが苦手です。また、相手をじっと見詰めるのは失礼なことと思っています。しかし、相手を見ることは相手に対して礼儀正しいことではないでしょうか。正面に真っ直ぐ顔を向けるには心にやましさや後ろめたさがあってはできません。いつでもどんなことにも、常に正面を真っ直ぐに見ることが出来るように、心を整えておきたいものです。それが神様に向かう姿勢です。(KE)
「種まきは御言をまくのである。」マルコ4:14
イエス様の語った「種まき」のたとえ話の一節です。神様の言(ことば)を種に譬えました。種は見栄えのしない小さな粒です。これが土に埋められ、湿気と温度によって分解し芽が出て根が伸び大きく育ちます。種の中に「いのち」が宿っているからです。命のないものを土に埋めれば腐敗しておしまいです。神様のことばもそれと同じで、聞いた言が心に埋められると、やがて新しい力を発揮して、私達のいのちとなります。(KE)
「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。」黙示7:17
神様を信頼し畏れ敬う生涯は、この世で報われることの少ない戦いの旅路です。しかし、この旅路が終わるとき、主の御前に携えあげられて、イエス様の慰めと命をいただくことができます。与えられる報いを望みつつ、今日も備えられた道を、主のみこころに従って歩んでください。あなたの労苦は無駄になることはありません。(KE)
「すると彼は言った、『あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです』。」ヨハネ9:25
イエス様によって見えない目を癒してもらった人の言葉ですが、とても力があります。この言葉が知識や伝聞ではなく、自分の身に起こった紛れもない事実を語っているからです。私達の信仰の弱さはイエス様を実験体得していないからです。盲人であった彼はその障害のゆえにイエス様に触れ、主を自分のものとしました。(KE)
「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」第二ペテロ3:14
「この日」とは「神の日」、終末のときです。その日はわたしたちの救いが具体的に完成する日でもあります。今は、信仰によって神の子とされていますが、その日には文字通り神の子となって、父なる神様のみまえに出るのです。それゆえ、今、主の恵みを信仰によって受け、信じ、それが具体化されたものとして生きようではありませんか。(KE)
「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。」伝道10:1
「死んだはえ」がどの程度の悪臭であるか知りませんが、どんなに僅かな異臭でも香料をダメにしてしまいます。それと同様にほんの少しの愚痴によってそれまでの努力が台無しになります。神様から求められることがあるならば全力を尽くして最後までまっとうしましょう。知恵を尽くし栄誉に輝く業績であっても、一言のつぶやきが全てを失わせます。神様はあなたの労苦に報いてくださる方です。(KE)
「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6
私達の住む世界は混沌と無秩序がはびこって滅びへと進んでいるように見えます。しかし、神様は全てのなかに「みこころ」を行っています。ただ、私達は神様のご計画、みこころのすべてを知り尽くすことができません。たとえ見えるところがどんなであっても、神様はすべてのものの主権者でご自分の意図をすべてに貫く方です。今日もあなたの上にみこころを行ってくださいます。(KE)
「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」ヨシュア1:9
「主が共におられるゆえ」とはなんと心強いことでしょうか。あなたは気落ちしたり、失望することがありますか。今日も主は、「ここにいるよ」と声をかけておられます。どうぞ、見えないけれどもあなたの間近にいらっしゃる主を信じて、奮い立とうではありませんか。主はあなたを助けようと待っています。(KE)