草むしり作「わらじ猫」前8
㈡吉田屋のおかみさん③
庭では赤ん坊を負ぶったおなつが、弟の信二に桃太郎の話を聞かせていた。姉のお糸に比べ弟の信二のほうは、からだも丈夫で性格も明るい。奉公にあがったばかりのおなつにすぐに懐き、この頃では片時もおなつの傍を離れない。今日も朝飯を食べ終わると、もうおなつの元に走り寄ってきた。
「桃太郎は犬、猿、雉を家来にして、鬼にさらわれた姫さまを助けに行きました。お婆さんから貰ったきび団子を食べるとあら不思議、桃太郎は立派な若様になりました。犬は剣の達人のお侍様、猿は力持ちの相撲取り、雉は魔法の呪文を唱える和尚さんになって、鬼が島に向かいます」
聞くとはなしに聞いていたお糸だったが、おなつの話が自分の知っている桃太郎の話と違っているのに気がついた。面白いと思う反面、嘘の話をすらすらと話すおなつが憎らしくもあった。
「おっかさん、おなつがね、嘘の話を信二に聞かせているよ」
お糸は帳場でそろばんをはじいているおかみさんに、言いつけに行った。
吉田屋のおかみさんは家の中で子どもの面倒を見るよりも、店の帳場でそろばんをはじいているほうが性に合っているようだ。おなつが子守奉公に上がってからは、ますます帳場で過ごすことのほうが多くなった。
「なんですねお糸、お店に出てきては駄目だってあれほど言ったじゃないかい。さっさっと奥にお戻り。話は後で聞くから」
振り返ると、もうお糸はいなかった。
―あの子何しに来たのかしら。
ちょっと気にはなったが、どうも帳面が合わない。そちらのほうがもっと気になるのか、おかみさんはお糸のことはすぐに忘れてしまった。
「おとっつぁん、おなつが嘘ばっかり信二に教えているよ」
お糸の方は母親に脈がないと分かると、すぐに父親に言いつけにいった。父親のほうは店の中でお客の相手をするよりも、人足に混じって重たい米俵を担いでいるほうが性に合っているのだろう。体格も店の中の誰よりも大きく、力は人足にも引けをとらなかった。
今も大八車で運びこまれた米俵を蔵の中に運び終わって、人足たちと一緒に一息ついているところだった。
「いやね、タマって言うんだがね。それが来た早々こんなでっかい鼠を三匹も捕ってね、しかもわたしの部屋の前に並べているんだよ。朝起きて障子を開けたとたん、もう腰を抜かしちまうところだったよ」
どうやらタマの自慢話を始めているようだ。タマが来てから鼠が減ったからだろう。
おとっつぁんとおっかさんはこのところずいぶんと機嫌がいい。
「おとっつぁん、おなつが信二に……」
言い終わらないうちに追い払われてしまった。
おっかさんときたらいつも帳場でそろばんをはじいてばかり、おとっつぁんも米俵を担いでばかり。縁側でお糸が涙ぐんでいると、庭の飛び石の上からタマこちらを見ていた。
タマは好き嫌いがはっきりしている。だんなやおかみさんには懐いていたが、子どもは嫌いなのだろう、お糸や信二、店にいる二人の丁稚たちを見ただけで逃げていく。反対に大人の使用人にはけっこう懐いているのだが、誰でもといいというわけでもなかった。猫が嫌いだと言うお関などには、寄りつきもしかった。
「あっちに行ってよ、シィシィ」
お糸はタマを追い払おうと、持っていたはたきを振り回した。するとタマは地面に低く伏せ獲物を狙うような格好をした。尻尾をプルプルと振ながら、はたきに飛びかかる機会を狙っている。
―面白い。
お糸の振るはたきにタマが飛びついて来た。小さく地面を這うように振れば、タマも地面に伏せて飛びかかる隙を狙っている。大きく振り回すと今度ははたきに向かって飛びかかってくる。お糸はいつの間にか夢中になってはたきを振り回していた。
ふと顔を上げると、信二と赤ん坊をおぶったおなつが食い入るようにこちらを見ていた。
「ずるいよ、姉さん。おいらにもやらせておくれよ」
信二がお糸のはたきを取り上げると、タマに向かって振り始めた。
奉公人とお店の子どもの違いはあるが、同じ年頃の子ども同士だ。きっかけさえ掴めば仲良くなるのに、たいした時間はかからなかった。
今日もまたおなつは赤ん坊を背負ったまま縁側の踏み石の上に腰をかけて、信二にせがまれるまま桃太郎の話を始めていた。お糸もタマを膝に乗せて、縁側で信二と並んでおなつの話を聞いている。子どもたちはおかみさんが通りかかったのも気づかないようだ。おなつの話はいよいよ大詰めに入った。
「とうとう鬼を退治した桃太郎たちは、鬼が島の奥深く、高い城壁に囲まれた城の前にやってきました。この城の中には都の姫様が囚われていました。姫様は鬼の呪いによって眠り続けております。桃太郎が門の前に立つと固く閉ざされていた門は、まるで桃太郎を待っていたかのようにひとりでに開きました。城の中の天守閣に姫様は眠っておりました。桃太郎は……」
「おなつ、なんだいその話は」
おかみさんは子どもたちの後ろから声を掛けた。
おなつの話に固唾を呑んで聞き入っていた信二は、驚いて縁側から転げ落ちそうになった。とっさにおなつが襟首を掴まなければ、踏み石に頭を打ちつけるところだった。お糸の膝の上で丸くなっていたタマも驚いたのだろう、あわてて縁の下に潜りこんだ。
「なんだ、おっかさんか。鬼が出てきたのかと思ったじゃないか」
大笑いをするお糸と信二の横でおなつは申しわけなさそうに俯いていた。
「これお糸、なんだねぇその笑い方は。お店のお嬢さんはね、口に手を当ててこうやって笑うのだよ。おほほほほ」
―この子がこんなに笑うなんて
おかみさんは大口を開けて笑うお糸をたしなめるものの、嬉しくもあった。それにしても、そろばんが合わない。まだ笑い転げている子どもたちを残して、帳場机の前に座った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます