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草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

麦踏

2024-01-12 11:08:17 | 草むしりの幼年時代

麦ふみ

 今朝は冷え込みましね。冬の朝といえば昔は霜ですね。今朝は降りたのでしょうか?

 初めて東京に出てきた冬、霜柱の大きさに驚いたことを思い出します。生家で目にする霜柱とは比べ物にならないくいの高さの氷の柱でした。

 当地は瀬戸内海に面した温暖な気候ですが、それでも昔は年に数回は雪が積もったりもした。毎朝霜柱を踏んで学校に行った覚えもあります。ただ東京の霜柱と比べると高さは1㎝くらいで、踏みつけた時はいいのですがその後すぐに溶けてしまい、靴が泥だらけになっていました。

 さてその頃ですが、冬場には麦を栽培していました。当時どこの農家でもそうでしたが、冬場は田んぼで麦を栽培していました。夏の場は米、冬場は麦の二毛作ですね。社会の授業で習いました。

 ですから霜と麦とが出てくれば、連想するのは当然麦踏ではないでしょうか。横に蟹さん歩きをしながら一家総出で麦ふみする光景は、中高年の方なら一度はテレビのブラウン管を通じて見たことがあるのでは?

 しかし当地では当時、麦は踏まずに根元に鍬で土を寄せていました。一家総出の作業で、姉や私も行った覚えがあります。ただ何分幼かったゆえすぐに飽きてしまいました。

 その時父が麦踏みの話をして、踏んでもいいと言いました。鍬で土を寄せるより、その方が楽です。喜んで踏んだ記憶があります。ただしばらくすると飽きてしまい、その上踏んだ後から親に土を掛けなおされていました。

 たぶん本物の麦踏を見たことがなかったから、しっかり踏めてなかったのでしょう。ただ今になって思い出すと、その一家総出のメンバーの中に、祖父の青白い顔があった気がしてならないのです。

 若い頃肋膜を患ったせいでしょうか。それとも長男である父とそりが合わなかったせいでしょうか。祖父は一人で隠居と呼ばれる離れに住んで、私たち一家とは距離を置いていました。子守もしなければ百姓仕事もしなかったと聞いていました。

 当時私は祖父のことを爺じ(じいじ)と呼んでいました。目をつぶると麦畑が広がり、中央の方に父や母がいて、その端の方に爺じがいるのです。下を向いて鍬を振るいながら、麦を踏む私を横目で見ているのです。

 その時爺じ手には、木製の鍬が握られていました。持ち手だけではなく本来は金属であるべき鍬の部分も木でできており、申し訳程度に先の方に薄い鉄製の刃が取り付けられていました。

 「変な鍬だ」と私が言ったら「麦に土を寄せるには、これが軽くっていいのだ」と言ったのは、爺じだった気がします。

 後年母と野菜作るようになってから、一度だけ畑の隅に小麦を少し植えたことがあります。その時その鍬を引っ張りだして土寄せをしましたが、それほど軽くもなければ使いやすくもなかったです。おそらく鍬が家族の分なくて、仕方なく使っていたのではないでしょうか。 

 あの鍬はいったい何だったのでしょうか。爺じはとっくに亡くなってしまったのに、今でもあの鍬はあります。田植え綱や田んぼの中を押して使っていた草取り。牛のひかせていた「牛んが」「まんが」と一緒に、倉庫の一角に私が並べました。

 まったく私の頭の中には爺じの思い出がいっぱい隠されているようです。これが埋蔵金だったら、必死に探すのですが……。ぼちぼち捜すと致しましょう。

 


窓の多い家

2023-12-08 06:51:11 | 草むしりの幼年時代
窓の多い家
 
 昔の家はどこもそうなのでしょうが、私の生家はやたらと窓が多いです。一階はすべて掃き出し窓といわれる、床から頂上までの高さのある大きな窓です。
 
 その上二階には十六枚も窓があります。ただこれは父の代になってのことで、以前はやはり掃き出し窓でした。
 
 しかし今みたいにベランダでもあれば別ですが、窓の外は屋根なので危険です。そのため趣のある木製の欄干が取り付けられていました。見た目は古い温泉旅館の二階って感じですね。
 
 しかしさすがに二階に掃き出し窓はないだろうと、欄干を取り外し、新しく柱を横に通して窓を上下に分けました。つまり八枚あった窓が十六枚になった訳です。
 
 最初は木枠のガラス窓でしたが、雨が降りこんでくるのですぐにサッシになりました。サッシは銀色でしたが、家の見た目がよくないので平成になって茶色のものに変えました。ただ木枠からサッシになったにせよ、窓の数に変わりはありません。
 
 なんだか分かりにくい説明で申し訳ないのですが、窓の多い家だということは分っていただけましたでしょうか。
 
 これくらい窓が多いと夏は確かに涼しいのですが、冬は寒いし防犯上も問題ありますね。
 
 昔は家に鍵などかけたこともなかったのですが、今では戸締りをしっかりするようになりました。でも窓が多いので鍵も多く、戸締りをするものけっこう手間がかかります。また時折夢でうなされることもあります。
 
 ある時は強盗が、またある時は虎がせめて来るという夢を何度か見たことがあります。大慌てで窓の鍵をかけて回るのですが、どうしたものか二階の窓が木枠のガラス戸のままなのです。そしてついている鍵はネジ式の鍵なのです。
 
 ネジの部分をぐるぐる回して鍵をかけようとするのですが、困ったことに回してもまわしても鍵がかからないのです。もう目の前に虎がせまって来ています。このままでは食い殺されてしまいます。
 
「ああ、どうしよう……」
 
 というところで目が覚めるのです。思い出すと吹きだしてしまうくらいおかしな夢なのですが、目が覚めた時には心臓がバクバクしていました。まったく家に窓が多いと、変な夢を見るものですね。
 
 「窓の多い家」理解していただけましたか?

草むしりの「続ことしの花火はどこにいこうかな。」

2023-11-07 10:10:43 | 草むしりの幼年時代

 草むしりの「続ことしの花火はどこにいこうかな。」

 先日書いた草むしりの「ことしの花火はどこにいこうなか」は、子どもの頃の見た山下清のような人のことを書きました。当たり前のことですが、それは私の勘違いでした。ただその時お坊さんのような恰好をした物乞いが、いつも我が家に来ていたのを思い出しました。

 母によればその人は物乞いではなく、祖父の友達だったそうです。祖父を尋ねた帰りに必ず寄って、庭先でお経をあげていました。お経が終わるとお茶碗を差し出し、その茶碗にお米を入れてあげていました。

 ある時私が一人で家にいるときに、やって来たことがありました。当時は物乞いだと思っていましたから、怖くて仕方ありませんでした。でも勇気を振り絞りお茶碗を受けとると、お米を入れてあげようとしました。ところがあいにく米びつの中は空っぽでした。

 さて困った。それからどうなったのかは全然覚えていません……。とこのようなことを書きましたが、今になって考えるとあの時母がいなかったったのは、きっと米の精米に行っていたのだと思います。

 当時米の精米は「くるまや」と呼ばれる、共同の精米所で行っていました。まだリヤカーで荷物を運んでいた時代でした。私は母のひくリヤカーに乗せられて、何度か一緒に行った記憶があります。

 精米所は地区の外れを流れる深い川の淵のあり、川の水の流れを利用してモーターを回していました。川に降りるには細いデコボコの坂道を降りて行かねばなりませんでした。リヤカーに揺られながらふと横を見ると、木々の間から深い谷川が見え、子ども心にも恐ろしかった思い出があるます。

 私などはのんきにリヤカーに乗っているだけでしたが、それを曳く母は必死だったのでしょう。後年になってあそこに行くのが一番いやだったと話をしていました。

 坂道をやっとの思いで降りると河原があり、その一段高いところに粗末な小屋がありました。小屋の下には川から水路が引かれており、仕切りの板をあげると水が流れ込んできて、ゴーっという音ともにモーターが回り、精米機がガタガタせわしない音を立てて動き始めました。

 家の横を流れる小さな谷川とは比べものにならない位の大きな川と、激しい水流に怖気づいてしまい、私は母の傍を離れることができませんでした。河原で遊ぶこともできたのですが、とにかく怖くって、精米が終わるのをじっと待っているだけでした。その時間長いこと。退屈でたまりませんでした。

 この怖かった思い出しかない精米所は、昭和36年の10月下旬の台風で流されてしまいました。その後地区のちょうど真ん中あたりに、電気で動かす共同の精米所ができ、母もほっとしたことでしょう。

 あのお坊さんは来た時、母はどっちの精米所に行っていたのか?今となっては分かりませんが、台風がとても大きなものだったのは覚えています。家が何軒も流され、多くの犠牲者が出ました。私の同級生のお母さんや、一学年上の女の子も亡くなりました。学校で合同慰霊祭をしました。

 未だに台風と言えば10月と連想してしまうのは、あの36年10月の台風があったからだと思います。


草むしりの「ことしの花火はどこにいこうかな。」

2023-11-01 16:29:55 | 草むしりの幼年時代

 草むしりの「ことしの花火はどこにいこうかな。」

「神田古本まつり」で山下清 原画展図録「ことしの花火はどこにいこうかな」を買いました。

 山下清と言えば蘆屋雁之助主演の「裸の大将放浪記」というドラマを思い浮かばれる方も多いのでは。二代目「裸の大将」窪地武雅版もありましたね。また古いところでは小林桂樹主演の東宝映画もあります。

 山下清と言えばランニングシャツにデカパン姿。リュックを背負って日本全国を放浪する。そんなイメージがありますね。たぶん蘆屋雁之助版「裸の大将」をいつも見ていたのからでしょう。

 それにしても雁之助版は長く続きましたね。その上何度も再放送されたので、いつも見ていた気がします。そのたびに子供のころ、山下清みたいな男の人がいたような気がしてなりませんでした。

 ある時母に、あの人は山下清じゃなかったのかしら。と尋ねたことがありました。すると母は「違う。あれは○○の○○さん」と即答しました。

 そういえば海辺の方の町に、そんな男の人がいたのを覚えています。名前を呼ぶと馬の鳴きまねをすると、聞いたことがありました。  

 お祭りが好きで、私たちの地域の夏まつりに来ていました。体が大きくてお腹もポッコリと出ていて、夏なのに茶色の冬服で山車の後をついて歩いていました。

 おとなしい性格で悪い事もしなかったのですが、子ども心になんだか怖かったことを覚えています。

「そうか、あの人は山下清ではなかったのか」

 ちょっと残念な気がしました。またそれとは別に昔はよく物乞いが来ていたのを思い出しました。当地ではその当時は、物乞いのことを「しとこ」と呼んでいました。

 「しとこ」はお坊さんのような恰好をして、よく家の台所の勝手口の前でお経をあげていました。お経が終わると黙ってお茶碗を差し出します。母はその茶碗にお米をついで、その人が首からぶら下げた四角い布の袋の中に入れてあげていました。

「あの人が来たら、お茶碗にお米を入れてあげるのだよ」と母からは言われていましたが、「しとこ」だと思うとなんだか怖くて、いつも母の陰に隠れていました。

 それにしても「あっ、また来た」っていうくらい、よく来ていました。ある時一人で家にいるところにやってきて、お経を唱え出しました。

 怖くて仕方なかったのですが、お米をあげなければなりません。ところがあいにく米びつの中は空でした。どうしていいのやら、怖くて米が無いととも言えないし……。その後どうしたかは覚えていなののですが、それきり「しとこ」は来なくなった気がしました。

 だから山下清似の人の話のついでに、その「しとこ」のことも尋ねました。

「ほらよく家に来ていたでしょ。お坊さんみたいな恰好をして、お米貰いにくる『しとこ』」

「しとこ?」

 母はキョトンとしてしばらく考えていましたが、その人なら祖父の友達だよ。と言いました。いつも祖父の所に遊びに来ていて、そのついでにお経をあげて帰って行ったのだとか。

 なんだ、そうだったのか。来なくなったのは、あの時私がお米をあげなかったからではなくて、その後祖父が急死してしまったからなのでしょう。

 祖父は私が小学校に上がってすぐのころに亡くなってしまったので、祖父のとの思い出などほとんどありません。ですから「しとこ」(失礼しました、托鉢のお坊さん)のことは、祖父との思い出として記録に留めておきたいと思います。


ことしの花火はどこにいこうかな。

2023-11-01 09:28:23 | 草むしりの幼年時代

 ことしの花火はどこにいこうかな。

 「神田古本まつり」では山下清原画展図録「ことしの花火はどこにいこうかな。」を買いました。

 本をリュックに入れて背負うと、すごく重く感じました。もちろん本自体も重かったのですが、何よりもその存在感が大きかったからではないでしょうか。

 山下清は大正11年(1922年)3月10日、東京市浅草区田中町で生まれ。昭和46年7月10日「今年の花火はどこへ行こうかな!!」の言葉を残し突然の脳出血で倒れ、2日後の12日二度と帰らぬ永遠の旅にでました。享年49歳。

 山下清と言えばその作品とともに、蘆屋雁之助主演の「裸の大将放浪記」というドラマを思い浮かばれる方も多いのでは。二代目裸の大将窪地武雅版もありましたね。また古いところでは昭和33年10月に封切られた小林桂樹主演の東宝映画もあります。

 子供の頃この小林桂樹版の映画「裸の大将」を見た覚えがあります。当時は「映画教室」と言って、小学校の講堂で映画の鑑賞会がありました。たぶんその時に見たのだと思います。

 詳しい内容は覚えてはいなのですが、でかいパンツにランニング姿の山下清がリュックを背負って旅をする話だったと思います。映画の最後の方で花火大会がありました。喜んで見ている清の次に、貼り絵をしている清が登場しました。それから花火の貼り絵が大写しされて終わりでした。

 その絵のなんと素晴らしかったことか。それが紙を手でちぎって貼ったものだったと知り、もっと驚きました。できれば実物を見てみたいと思いました。当時私はまだ、小学校3年か4年だったと思います。

 その子供の頃の思いが叶ったのは、ほんの数年前のことです。山下清原画展が当地で開催されたのです。さっそく夫と二人で出かけました。

 今私の手元にある「ことしの花火はどこにいこうかな。」の表紙にもなっている「湖に映った花火」ではないでしょうか?小学校の時に見た映画のラストで見た花火の絵は……。

 この原画図録では彼の絵を「純真・素朴」と表現していますが、黒い夜空にパッと咲いた花火は素朴ではありますが華やかさもあります。素朴な華やかさ?花や虫が好きだったとか。蜂や蜘蛛や蟻に愛情を感じました。友達の蜂クン蜘蛛クンみたいな……。

 でも子供の頃にはいじめられたのでしょうね。清の生い立ちを考えると心が痛みました。

 幼い頃から孤独な清にとって八幡学園での農園作業で出会った、花や虫はかけがえのない友だちであり、心を癒してくれる存在であったであろう。と、この本には書かれておりました。

 さてこの原画展では、もう一つ忘れられない思い出があります。

 できればずっと見ていたかったのですが、夫と二人で来たのが間違いでした。夫は出口でかなり待っていたのでしょう。ひと通り見終わったので、引き返してもう一度見たといという私の願いを聞き入れて貰えませんでした。「腹が減った」からと無理やり外に引っ張り出されました。

 その時何を食べたか覚えていませんが、きっとおいしかったでしょう。私もお腹が空いていたことでしょうから……。

でももっと見たかったです。やはりおひとりさまで来るべきでした。