そよそよ風がふいてます

青い葉っぱが揺れてます

13☆自分で動く充実感

2007年01月30日 | Weblog
 家でおだやかに過ごす、やりたいことを夢中でする、近くの数人のホームスクーラーと時々楽しいときを持つ・・・たっぷりある時間のなかでそれらはどんどんレベルアップしていくけれど、子供の成長のスピードにそれらは追いついていかなくなっていったみたいです。13歳のNASAも自分で挑戦していった結果ですし、14歳で3週間、長崎の五島列島のユースホステルででジュニアボランティアヘルパーをしたのもしぜんな自分開発の欲求でもありました。
ユースホステルのヘルパーがしたくて、いつもは苦手な電話をかけていました。最初は京都のユース、そこがもう決まっていて次に一番遠い五島列島。そこは島の高校生に来てもらおうとしていたみたいで、まさか兵庫から中学生の女の子が応募してくるなんて思ってもみなかったでしょう。子供のパワーにみあう、「自分で動く充実感」が必要のようでした。またそれができるように、家にいて家事のさまざまをこなしたり外では社会を味わい、自分で動ける生活力がホームスクーリングの過程で養われていったのだと思います。

 ユースにくる外国の方々に、早くに身につけた英語が役に立ったことはいうまでもありません。彼女自身もユースで34カ国の人と英語で話した経験から、国によって違う英語にふれ誰もできない学びをしたようです。語学で未知の人とふれあえる楽しさ、そこから語学熱は始まっていきました。自分で動いたことによって思わぬ展開が開かれていったのです。最初に送り出すときは、兄の大学のイベントに参加してからでしたので京都発でしたが、電車の扉がしまったときの、とたんの胸騒ぎを母親は忘れることができません。夜行列車で朝ついて、船乗り場まで行ってフェリーで・・・急に心配になってしまったのです。彼女自身は重たい荷物を抱え、ちゃんと着かなければいけないことに集中していて不安はなかったようです。「長崎駅からの路面電車がぎゅうぎゅう詰で乗るのも下りるのも大変だったよー」と言ってたぐらいです。
 そして福江港で待っていてくれたのはカトリックのクリスチャンの穏やかな穏やかなペアレントさんでした。第2の父の出現でした。どんなに鍛えられたことでしょう。それは私たち親にはとうていできないものでした。娘は仕事はハードでしたがふだん家でしていることとたいして変わらず、大勢のお客さんにめずらしがられ可愛がられながら楽しくてたまらない3週間を過ごすことができました。娘も教会で穏やかに育ち叱られることもない子でしたので、そこでのヘルパーとしての忙しい日々の中で叱られることも新鮮だったようです。「怒られてうれしかったー」・・・短期間にどんなに深い信頼関係ができあがっていたのでしょう。

12☆りっぱな大人との出会い

2007年01月26日 | Weblog
 この社会の中で信念を持って生きているさまざまな大人の人たちに出会い、あるときは協力し、あるときはその方々の得意分野のお裾分けをいただいた。
1番に挙げられるのが「刻む会」、アジアの戦争被害者に思いを馳せ心に刻む会・・・
そこにはさまざまな職業の人たちが年に1度、外に呼びかける集会のために何度も集まり準備した。娘12歳、息子15歳、今年はどんなおじいさんおばあさんがどこから来るのだろうか?準備の会にともにいることで学んだものは大きい。戦争はもういやだと思う人たちの敬虔な姿に魅せられていた。ずっと現在にいたっても年中行事である。その方たちと働くのが楽しいのだと思う。
 お裾分けというのは、その中でいつも音響を担当している高校の英語の先生が英検を受ける時に模擬面接(インタビュー)試験をしてくれたり、フリースペース作りに頑張る若夫婦がパソコン組み立ての仕事を依頼してくれたりしたことである。英語の先生は12,13歳で英語の日常会話を話す少女たちに尊敬のまなざしで接してくださった。

 人に優しいまなざしを持っている人たちは、子供を一人の人として受け入れ、大人のひとりでもあるかのように役割分担をしていった。子供たちは当たり前のようにやっていった。集会の内容自体は非常に悲惨なもので、年齢が上がるにしたがって心を痛めることも多くなったが集会中は耐えていた。12歳の時にはインドネシアのおじいさんの話のテープ起こしをしたが、13歳の時には台湾から招かれた元従軍慰安婦のおばあさんの同行者の英語通訳をして皆に紹介、話をつなげた。2つの中国語とそれを英語通訳する人だけの来日だったので、その英語を訳し皆の質問も英語で伝えた。相手方は、日本でこんなに若い子が英語をしゃべるのをみたことがないとしばらく英語だけで会話して娘も楽しんでいた。

 共存して生きていく・・・子供たちに伝えたいメッセージである。弱い立場の人たちを
大切に大事に思う心が、このような人たちから言葉としてではなくしぜんに伝わり、若いときにほんとによく耕された。成長した今も、とても優しい対応と理解で幼いホームスクーラーに慕われている。
たくさんの大人モデルに学び、それをまたすぐ実践できるのもホームスクーラーの特権です。

11☆回想録再び 挑戦

2007年01月06日 | Weblog
 娘の中1年齢は特に様々なものに挑戦していった年です。そのころ中学生新聞をとっていて、「NASAへ行く日本代表団の子供たち募集」に応募したこと。海外の子供たちと英語でメール交換したこと、たぶん十数人、アメリカ、オーストラリア、スペイン、ギリシャ、マレーシア、・・・何時間もパソコンの前でした。彼らの面白い英語にケタケタ笑っていましたね。たぶん相手も、娘のイギリスの紳士のような英語に笑っていたでしょう。

 市の少年少女合唱団の試験を受けて入団、同じく市の英語ボランティアサークルに入って活躍、洋裁教室に行き始めたのも、家で週1回ティールームを開いて紅茶とケーキセットで300円、で稼ぎ出したのもこのころ。ホームスクーラーの他の女の子たちがアクセサリーなどを作って売っていたのに触発されたのだと思います。おばさんたちばかりの洋裁教室ではホームスクーラーのお母さんたちに鍛えられた場を読む感性で溶け込み、旅行のおみやげを渡したときに「あら、新婚旅行のおみやげ?」などと言われて家で笑いころげていたものです。ティールームで儲けたお金で布地を買い、7,8着は作ったでしょうか、それとプレゼントの子供服を何着か。(おととしの婚約式にはお相手に素敵なシャツを作りました)

 6月は英検3級を受け合格、面接は面接官が思わず日本語をしゃべってしまうハプニングを引き出してしまうさすが独学、面接官が予想できない展開になったようです。アメリカNASA(選ばれたのです!)から帰った冬には準2級を受け、またしても1回で合格。学校へ行ってない13歳です。もうそのころは私は子供たちをみていて何か映画を見ているようでした。

 小学4年の3学期から遠ざけていた学校の勉強を、NASAから帰ってがぜん始めました。
特に数学、3年間のブランクがあります。ものともしないで始められたのは、NASAのスペースシャトルの修理工場で働く半分が女性だったこと(自分もできる)と、「ロケットボーイズ」の作者の奥さんから長ーい返信メール(ロケットエンジニアになるのはどうすればいいのか?)をもらって数学の必要性を痛感したからです。明けても暮れても数学、の日々の始まりです。なにしろ、九九から始めたのですから。13歳、自分で決めた出発点でした。2年後の15歳に高校数学を解いているなんて想像もつきませんでした。