スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【諸宗教の超簡単図解の試み】⑧禅

2011-11-25 00:04:53 | 高森光季>諸宗教の超簡単図解の試み

 禅は、もともとは仏教以前からある「瞑想」だったわけですが、大乗仏教の「禅宗」は、そこに集中し、仏教の根幹にある「一切の存在の否定」「一切の欲望・執着の否定」を徹底しようとする宗教だと言えるでしょう。
 そうなると、超越的な世界とか存在とか、死後の魂の行方といったことも、「執着を起こす原因」とされて否定されます。『臨済録』の有名な言葉、「親に遭うては親を殺し、祖師に遭うては祖師を殺し、仏に遭うては仏を殺し、初めて解脱を得ん」にあるように、神とか仏とか浄土とか地獄とか死後の魂とかに捕らわれていてはいけない、ということです。
 つまり、極論すれば、超越存在も死後世界もありません。



 「涅槃」「成仏」ということで、何かかろうじて現世を超えるところはある。そこは目指すべきところである。しかしそれをはっきりと定義したり議論したりしてしまうとよろしくない。あるのだけれど、ない。点線にしたのはそういうことです。(まあ、もともと仏教は涅槃・成仏をめざしていながら、涅槃・成仏とは何かをはっきりと語ってこなかったわけですが。)

 何遍も言うようですが、こういう「反超越論」は、現代の支配的思想(宗教)である唯物論と折り合いがいいので、近代知識人を標榜する仏教者は禅者ばかりでなく、こういう構図をとりたがります。いわく、
 「仏教は神仏も霊魂も否定した」
 「ブッダはどんなことに出会っても、平静な気持で人生を送れる境地に達した。これが悟りである」
 これがいかに「奇形」な構図であるかは、このシリーズの他の項を見ればわかるのではないでしょうか。

 ただ、こういう一種「徹底破壊」の思想は、とても意味があると思います。
 第一には「初歩」として。人間の魂は(思春期を過ぎて肉体に入りきると)、この物質界に囚われ続けます。我欲・物欲に振り回され、本質を見失います(反省www)。それを「無」の強烈な毒で逆解毒する必要があるわけです。ある仏教者は、「一切皆空」の思想を「向上門」としています。精神・魂・叡智の探究に向かうために必須のプロセスなのだ、と。日本仏教でも庶民への第一声は、「諸行無常」です。目を現世から引き離すことが必要なのです。しかし、解毒剤の毒を飲み過ぎると死にます(笑い)。否定に留まることは人間には不可能でしょうし、さもなければ独我論的傲慢に陥るでしょう。「向上門」は「向下門」に続かなければならない(ちょっと本義とずれますが、往相と還相と言ってもいいかもしれません)。
 第二には、「しばしば還るもの」として。精神的・宗教的探究も、一定の獲得があると、それを固定化してしまいます。見いだされた価値は、固定化され、やがて桎梏になります。教義を必死に守ろうとする人は、結局教義を表現する機械になってしまいます。成長のための自由が失われるわけです。だから、「仏に遭うては仏を殺す」必要がある。ただ、殺しっぱなしではだめで、再び仏を見いだし、仏にならなくてはならない。魂にとって重要なことは「外部の価値」そのものではなく、価値を見いだし、それを何度も検証し、自己のものとすることです。われわれは時折、自己の信条をすべて否定してみる必要がありそうです。(運命は時折、それを「挫折」という仕方で用意してくれることがあります。)
 そういう意味で、禅が持つ徹底破壊の運動は、精神の成長のためには本質的で不可欠な要素だと言えるかもしれません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿