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「幸いなるかな」

2012-09-25 00:10:36 | 高森光季>イエス論・キリスト教論

 キリスト教ではものすごく有名な「真福八端」というイエスの説教とされるものがあります。
 マタイ福音書の第五~七章の「山上の説教」(昔は「山上の垂訓」という言い方の方が多かったような気がしますが違うかな)の冒頭に置かれている「幸いだ」で始まる八つの文章です。昔の訳では「幸いなるかな」で始まりました。
 前にも書きましたが、というか、福音書研究ではすでに常識ですが、この「山上の説教」自体が、マタイ福音書制作者の「編集」、もっと言えば「捏造」です。
 マタイは、様々な場面で語られたイエスの教え(とされるもの)を、イエスの宣教開始の場面にまとめることで、物語をドラマチックに構成したわけです。
 ちなみにここでイエスは山の上から足下の群衆に向かって大演説をしたというふうに受け取っている人が多いようで、実は私もそう受け取っていましたが、全然そうではありませんね。イエスが山に登るというのは集まってきた群衆を避けるため(あるいは瞑想・祈りをするため)のことが多いです。マタイの原文も「ついてきた弟子に教えた」とあります。それなのに群衆に大演説をして宣教を始めたという印象を持つのは、マタイのドラマティックな物語構成のたまものなのでしょう。伝統的に3つの共観福音書の中でマタイが最高と見なされてきたのも、このあたりに原因があるようです。

 新共同訳とラテン訳で。(新約聖書原文はギリシャ語ですが、書けないし読んで類推もできないのでw)

 《イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
    その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
    その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
    その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
    その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
    その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。》

《Beati pauperes spiritu,
  quoniam ipsorum est Regnum caelorum.
 Beati, qui lugent,
  quoniam ipsi consolabuntur.
 Beati mites,
  quoniam ipsi possidebunt terram.
 Beati, qui esuriunt et sitiunt iustitiam,
  quoniam ipsi saturabuntur.
 Beati misericordes,
  quia ipsi misericordiam consequentur
 Beati mundo corde,
  quoniam ipsi Deum videbunt.
 Beati pacifici,
  quoniam filii Dei vocabuntur.
 Beati, qui persectutionem patiuntur propter iustitiam,
  quoniam ipsorum est Regnum caelorum.》


 ここで言われている「幸いである」という言葉は、マルコ福音書(一番古いもので、マタイもルカもこれをベースの一つにしている)には出てきません。
 しかし、ルカ福音書には、このうちの三つが出てきます(6:20-21)。

「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである、
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである、
 あなたがたは笑うようになる。

 つまりマタイとルカが同様にベースにした「Q資料」(未発見)にはこれらがあったと思われます。

 また、トマス福音書(1945年発見、コプト語)には次のような言葉が出てきます。

 イエスが言った。「あなたがた貧しい者たちは幸いだ。というのは天国はあなたがたのものであるからだ。」(54)

 イエスが言った。「骨折って命を見出した者は、幸いである。」(苦しんだ者は幸いだ。彼は命を見出したからだ。)(58)

 「飢えている人々は幸いである。彼らの腹は満たされるからだ。」(69-2)


 つまり、おそらく
 ①貧しい者
 ②飢えている者
 ③悲しんでいる者
という三つは、かなりイエス本人に近い伝承だということになります。これを一まとまりのものとして言ったか、ばらばらな発言が後からまとめられたのかは不明です。②と③は対句表現かもしれませんね。
 マタイは独自資料(独自伝承)によったか、編集的創作かで、これに五つを加えて、美しい説教に仕立てたわけです。(「8」というのはちょっと奇妙ですね。ユダヤの聖数なら「7」でしょう。これをまとめた作者はユダヤ文化にいなかった?)

 なお、この「八端」に続いて「私のためにののしられ、迫害されるあなたがたは幸いである」という文章があり、これはルカにもほぼ同じ内容で出てきます。
 八端の第八とそれに続くこの文章は、まずイエスとは関係ないものと考えて差し支えないでしょう。そもそもイエスには「迫害(dioko)」というような考え方はなかっただろうからです(「ののしられたり馬鹿にされたりするだろうぜ」くらいのことは言ったでしょうけれども)。マルコには「迫害」は二ヵ所しか出ず(4:17、10:30;diogmos)、いずれも解説的捕捉や補筆が疑われるものです。迫害は、イエス信奉者集団ができ、正統ユダヤ教と対立を始めてからの問題です。

      *      *      *

 マタイの捏造はひどいもので、「貧しき者」を「霊において貧しい者」、「飢え渇いている者」を「義に飢え渇く者」としてしまっています。ラテン語で見ると、「spiritu」「iustitiam」の部分ですね。
 田川建三先生も言っているように、当たり前に考えれば、貧しい者、飢えている者が「幸い」であるわけがない、だからマタイも「霊において」「義に」という説明を付けざるを得なかったのでしょう。そして、それではイエスの意図が台無しになります。

 イエスは、貧しい者、飢えている者、悲嘆にくれている者と言った。それが「幸い」なのだ、と。
 しかも、佐藤研氏によれば、この「貧しい者 ptochoi」は、「乞食」と訳すべきものだとされています。「幸いなるかな、乞食たち。神の国は彼らのものだ」が原義だと。

 幸いだ、乞食たち。幸いだ、飢えている者。幸いだ、悲嘆にくれる者。

 そんな馬鹿な。
 今風に言えば、貧民窟に生まれ、虐待を受け、ストリートチルドレンやホームレスになり、わずかな食糧を得るためにボロボロになっている人々、彼らこそが幸いだ、と。
 まさか。
 そういう人たちにそんなことを言ったら殴られますよ。
 自分でその方が幸いだといって、そういうふうになれますか。

 「いや、それは願いであり、祈りです」と言う人もいます。
 極貧者こそ、神の国に入ってほしい。飢えた者、悲嘆する者こそ、神の国に行き、満たされ、笑ってほしい、と。
 心優しきヒューマニストの思いでしょう。
 でもイエスは、そういった綺麗事を言う人ではなかった。

 ルカ福音書は独自記事として、この「幸い」の後に、「禍い」という文章を載せています(6:24-26)。
 佐藤研氏の訳を引用させてもらいます(『ルカ文書』岩波書店、1995年)。

 《しかし、禍いだ、お前たち富んだ者たちよ、
 お前たちは、お前たちの慰めを〔すでに〕得ているのだ。
 禍いだ、お前たちよ。いま満たされている者たちよ。
 お前たちは飢えるだろう。
 禍いだ、いま〔大〕笑いしている者たちよ。
 お前たちは悲しみ、泣くだろう。
 禍いだ、すべての人々が、お前たちをよく言う時は。実際、彼らの父祖たちは、偽預言者たちにも同じようにしていたのだ。》

 まあ、「幸い」の文章をただひっくり返しただけで(論理学では「裏命題」にあたるわけで正しいわけではありませんねw)、馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいですし、こうやって一般生活者を脅すのはあまり品のいいこととは思えません(笑い)。ルカというのはどうもこういうダサイところがあります。

 脱線しますが、映画『薔薇の名前』で修道院長が笑いを厳しく禁止している場面があって、昔見た時、こんな教義があったかしらと訝かった記憶があります。今思いついたのですが、これ、このルカの「禍いだ、笑っている者よ」から来ているのでしょう。勉強不足ですが修道院ではそういう規則があったのかもしれません。院長は「笑いは人の顔をサルのようにする」と言い、主人公ウィリアムは「サルは笑いませんぜ」と切り返す。なかなか味があります。まあ、イルカなど高等な生物は笑うようですが、この笑いというもの、確かに“精神”を持つものならではのものであり、神秘的な謎ですね。笑いを殺したら精神も死ぬ。ルカの原文は全然そんな意味ではないのに、教条主義というのは恐ろしいものです。

 けれども、最初の文は、意味深です。
 「金持ちは悲惨だぜ。だって、この世ですでに楽を得てしまったんだから。向こうではゼロだぜ」
 同じくルカに出てくる「金持ちとラザロの話」(16:19-31)も同じ命題です。
 もちろん、「死後の世界=神の国ないし天国」があって、それとこの世との単純算数です。こっちでもらったらあっちではなしね。
 まあそれはちょっと稚拙過ぎる考え方ですが。

      *      *      *

 この点はすでに「【霊学的イエス論(12)】現世的価値の否定」にも書いたことですが、要するに、イエスにある「現世への徹底的否定」を見ない限り、これらのことは理解できないことでしょう。

 《ここには、イエスの現世に対する呪いにも近い忌避のようなものが見て取れる。この世と馴れ合うな、この世の報いをもらうな、そうでないと神への道は歩めない、と。》

 この世のもの、富や名声や権力はもとより、豊かな楽しい生活も、「永遠の命」を害するものだ。この世のものを得ることができず、苦しみ悲嘆することが、「神の国」に入る鍵だ。
 超過激主義者だったイエスは、本気でそう思っていたし、そう言った。

 「神の国」を“現実”として知っていた人の目には、現世に対するいかなる愛着も、愚劣なものにしか見えなかったということでしょうか。
 この局面においては、イエスは、「切に世を厭い嫌う者となれ」と言ったブッダに、きわめて近い位置にあるように思えます。

      *      *      *

 学者でもないのに余計なことですが、その他のマタイ独自記事「幸い」について少し。

 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」は旧約・詩篇37:11にある表現です。ただし新共同訳ではなぜか「貧しい人」になっています。「悪をなす者に心悩ませるな。彼らは滅び、柔和な人々が国を継ぎ、豊かな繁栄を楽しむだろう」というような内容です。「乞食こそが幸い」とはずいぶん位相の違う言葉ですね。「地(国)を受け継ぐ」といった思想はイエスにはあまり縁のないものでしょう。むしろそれがひっくり返ることを目指していたわけですから。

 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。これはマルコ11:25-26の「あなた方が立って祈る時に、だれかに対して恨み事があるなら、それを許しなさい。そうすれば天におられるあなた方の父もあなた方の違反を許してくださるだろう。だがもし許さないなら、あなた方の天の父もあなた方の違反を許してくださらないだろう」(マタイ6:14-15)と同じ内容ですね。「善を行なえば善を受ける、悪を行なえば悪を受ける」というのは、シルバー・バーチさんの言う「霊的因果律」で、真実でしょう。イエスもこういうことを度々言ったでしょうけれども、ある意味では普遍的な叡智であって、イエス独自の思想と言うことではないと思います。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。これはイエスの言葉ではないでしょう。だいたいイエスは「俺は地上に平和をもたらすために来たんじゃないぜ。分裂を、火を、争いを投げ込みに来たんだ」(マタイ10:34、ルカ12:51、トマス16)と言っているわけです。また、「神の子」という言い方は、周囲が発したことはあっても、イエス自身は発言していません。「神様ってのは俺たちの親父だろ」とはしょっちゅう言っていましたが。

 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」。これはとても面白いものです。
 当時のユダヤ教世界で神は絶対至高の存在であって、「神を見る」などということはあり得ない。モーセですら神を見まいと目を反らしたし、士師記には「神を見たので死ぬだろう」という記述もあります(13:22)。人間に見られるような存在ではないわけです。
 イエスだってそんなことをおいそれと言うわけがない。実際、共観福音書には「神を見る」というのはここにしか出てきません。
 だとするとこれは何か。よくわかりませんが、もしかすると、グノーシス的な神秘思想に由来するのかもしれません。マタイ制作者の中にそういった傾向を持った人がいたのか、それとも、そういった神秘体験的文脈でイエスがぽろっと言ったのがたまたま伝承されたのか。
 福音書に遺されたイエスの発言はごくごく一部分であって、もっと多くのことが語られたが理解されず記録されることもなかった、とスピリチュアリズムの高級霊の霊信は言っています。そうした言葉の中には、霊的な事実を語ったがゆえに、神秘主義的、あるいはグノーシス的と見えるものもあったでしょう。トマス福音書には、そうした摩訶不思議な言葉がいくつも収められています。それらの一部は後の時代のグノーシス思想の流入かもしれませんが、或る部分はイエス自身の言葉であった可能性があります。

      *      *      *

 うだうだ書いていたらずいぶん長くなってしまいました。
 要するに、一番高く評価されているマタイ福音書の、一番重要な説教場面の、一番感動的に設定された詩句で、すでにイエスの思想は歪められてしまっているということです。
 そして、「幸いなるかな」におけるイエスの問いかけは、「乞食が、飢えている者が、悲嘆にくれている者が、幸いなのだ」という超過激な言説を、果たしてわれわれは受け止めることができるか、ということだと思います。
 人間としてわれわれはそう言い切ることはできない。無理っす。けれどもその過激な切り裂きに、何かを見ることができるか。それを生きようとすることができるか。
 重い問いかけですね。


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