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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

インターまでの距離表示

2019-03-31 23:02:30 | つぶやき

 高速道路を走っていて、出口までの距離表示の中で、最も意識するのは2キロメートル表示、次いで1キロメートル、あるいは500メートル表示ではないだろうか。もちろんインターによって表示距離が統一されているわけではない。1キロメートルがなくて、500メートルだったり、600メートルだったり、とまちまちだ。おそらく表示看板を設置する場所の環境に影響しているもので、1キロメートル表示をしようとする場所が橋梁上だったりすると前後しているケースが多い。

 なぜ2キロメートルを意識するかと言えば、出ようとしているインターならば、この距離表示を見て追越車線から走行車線に車線替えをする目安になる。もちろんドライバーによって目安かどうかは異なるところだが、この表示がないと、かなり危険度が上がるだろう。なぜならば車線替えをする目安がなくなるからだ。とはいえ、必ず2キロメートルより短い表示板があることを認識しているから、さらに短い距離表示を目安にするドライバーも多いだろうが、いきなり1キロメートルや500メートル表示だったら「慌てる」はず。追越しを日常茶飯事にやっている人は、2キロメートルで車線替えはしないだろう。1キロメートル表示、あるいは500メートル表示が現れてから走行車線に戻るドライバーも多い。したがって普通なら2キロメートル、激しい運転をする人はインターに最も近い距離表示看板を意識する。が、やはりそれは2キロメートル手前に表示があるから安心してできることかもしれない。

 この距離表示、インターによって距離感が異なる時がある。「あれっこれで1キロなのか」などと…。実際のところいくつかのインターで距離を測ってみたわけではないが、看板で表示されている距離は、インターへの導入車線が始まる位置までの距離を示しているようだ。したがって出口までの距離ではない。ということはインターによって距離感が異なる、という感覚は錯覚に過ぎないということになる。あるいは導入部の車線の長さが距離感の違いを生んでいるのかもしれない。昔にできたインターは短め、新しいインターは長め、かもしれない。

 何といっても走行車線に車が繋がっているケースで追越しをかけている場合、どこで走行車線に戻るか躊躇するもの。走行車線を走っている車のスピードにもよるし、もちろん追越し車線を走っていても、前に車がいれば、その車のスピードにも左右される。県内の高速道路では、通行台数がそれほど多くないから躊躇するようなケースは少ないが、それでも中央自動車道は、県内でも通行量が多い。いわゆるジャンクションの入りに悩むドライバーは、けっこう多いのではないだろうか。とりわけ岡谷ジャンクションへ長野自動車道から向かって下り車線(名古屋方面)へ入ろうとする車だ。中途半端に混雑していると、躊躇する人は多い。だから渋滞を起こす、というわけだ。

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水路の脇にあった石仏

2019-03-30 23:33:11 | つぶやき

 

 一昨日「阿南町の一石三十三観音」において、現場で出会った一石三十三観音について触れた。用水路を歩きながら出会った石碑は、これまでにも何度となく記してきたが、先日阿南町新野の、集落内を流れる水路の傍で、「善光寺 駒ケ嶽」と彫られた聖観音に出会った。本当に水路に沿った脇に祀られていて、用水路と何らかの関係があるのでは、そう思うほどであったが、「善光寺」と「駒ケ嶽」が彫られていて、何にか関係があるのだろうか、そんなことを思った。

 実は善光寺の北、地附山の中腹に奥の院と言われる駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社がある。善光寺創建(7世紀後半)より古い産土神だという。「週刊長野記事アーカイブ」に次のようなことが書かれている。

 本堂から参拝に出向くには、城山団地内の古道を経て、山麓の滝地区から急坂を上る。由緒ある辻々では、黒御影石の立派な道標が案内してくれる。展望道路を横切り、上り詰めれば参道入り口に=写真下。傍らに1985(昭和60)年の地滑り惨事の松寿荘(養護ホーム)犠牲者20人余の慰霊碑が立つ。

 神社があの地附山大地滑りで「滑り落ちなかった」のは、頑丈な岩盤上に建立されているからだ。以来、「絶対、スベらない神様」として受験生の参拝が絶えない。

 この神社は駒形嶽駒弓神社であって石碑にある「駒ケ嶽」と同じではない。しかし、善光寺と駒ケ嶽を結んでいる理由なのかもしれない。文政12年、1829年に建立されたものだ。駒形嶽駒弓神社が現在の社号になったのは、文政11年だったという。その翌年に建立されているのも何かしら意味があるのかもしれない。新野の町の中を流れる高路沢で取水されると、間もなく水路沿いにこの石碑が祀られている。

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息子より若い彼に・・・

2019-03-29 23:15:56 | ひとから学ぶ

 一昨日から今年入社したばかりのまだ19歳の彼と現場に出ている。期待していなかったが、同じエリアの隣の出先から彼を貸してくれると連絡があって、手伝いをしてもらっている。そのお陰で、今年度内どころか新年度にかなりの現場が持ち越されると予想していたが、だいぶ消化できて、持ち越しは数カ所程度というところまで現場が消化できそうだ。

 彼は3歳まで東京で暮らしていた。母親が亡くなって父親だけでは子育てが難しいと判断されたのだろう、その後は祖父母の暮らす飯田で育てられた。父親は今もって東京で単身暮らしている。母親の記憶はほとんどないだろうと思って聞くと、母親がビールを飲んでいる姿を覚えているという。3歳だから1度や2度の記憶では残っていないだろう、母親がかなりお酒が好きだったということはそこからうかがえる。彼にとっては写真によって母親の面影は、後に記憶に留まったのだろうが、それ以外では残っているのは前述の通り。本人も「かなり変わった母親だったみたい」と言う。まだ30歳少しで亡くなった母親が、どういう病、あるいは状況で亡くなったかについて詳細は知らないという。

 現代の若者なのだろうか、休みは自宅で過ごすのが好きだという。あまり行動的に外出することは無いようだ。そんな彼が先日の日曜日、祖父母に頼まれて畑仕事をした後、会社に行って午前12時近くまで働いてきたという。先輩に残業させられているという噂も聞いていたので、「他にも誰かいたの」と聞くと「僕だけだった」という。2日後に納めなければならなかった成果品を製本するために仕事に行ったという。前日の土曜日も仕事に行ったようで、「いつも何時まで仕事しているの」と聞くと、「午後11時くらい」と答える。「みんなそうなの」と聞くと、「そうです」と…。もちろんずっとそうだったわけではなく、納期が重なるようになる2月半ばころからだという。ほぼ毎日そんな暮らしで、「帰ってから夕食を食べるの」と聞くと、「夜食を用意していく」と言う。もはや勤務時間が1日14時間から15時間状態だったようだ。加えて土日のどちらかは当たり前のように出勤していたという。「本音はどうなの」と聞くと、「休日は出たくないけれど、雰囲気は“出てこい”みたいな感じ」のようで、まさにブラック企業のような状態。致し方ないと言えばそれまでだが、では「上司から休日出勤扱いの話はなかったの…」と聞くとなかったよう。これってかなり問題あり、そうわたしは思うのだが、もちろんわたしもそれに近く仕事をしているが、あくまでも致し方ない“趣味”のようなものだ。強いているのは、やはり問題として取り上げるべきもの。それも今年入ったばかりの新人だ。

 わたしも長い会社勤めの中でずいぶん仕事をやった。しかし、強いられてやったことはほとんどない。あえて言えば「口うるさい」やつがいて、仕方なくやったのがせいぜいだ。

 現場で質問をするとはきはきと即座に答える彼が、電話口では口ごもる。彼にそれを問うと、あまりそれに対して理由を口にせず、あたかも電話が苦手だから…、というような答えをした。しかし、その背景に何かがないのだろうか、などと少し心配になったが、現場での答えがはっきりしているから「大丈夫」、そう感じた。わたしは若い人たちのいる出先に最近いなかったので、彼に新鮮さを覚えたのと同時に、取り巻く先輩の存在に心配かが膨らんだ。

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阿南町の一石三十三観音

2019-03-28 23:26:20 | つぶやき

 1ヶ月ほど前に「富草大島の一石三十三観音」について記した。その後阿南町内で4基の一石三十三観音に出会っている。これはあえて訪ねたわけではなく、たまたま仕事で歩いていて出会ったもの。ようは農業用用水路を歩いていて出会ったものだ。もちろん水路に接している位置にあったわけではなく、周囲、あるいは迂回して歩いていて出会ったもの。

 

瑞光院

 新野瑞光院にある一石三十三観音は、すぐ近くを水路が流れている。一昨日触れた女夫岩の亡霊塔より少し沢を遡ったところでこの水路は取水される。そして等高線に沿って瑞光院の裏まで導水されている。瑞光院のものは、井戸寛氏が『日本の石仏』146号に「中部山地に点在する一石三十三観音塔探訪」として報告されたものの中で、天文2年(1737)とされている。はっきりとその年銘を確認できなかったが、このあたりの一石三十三観音の中では古い方のものである。ほぼ人の背丈と同じ1.5メートル余りの碑高。

 

小野

 阿南町役場のあるところから平久へ向かう村道から少し外れたところに立つ一石三十三観音は、写真の通り、何が彫ってあるかわからないほど摩耗している。風化が著しいから古いとは言えないだろうが、この状態であるから年銘などまったくわからない。かなり古いものなのかもしれない。この碑は、やはり同じくらいの高さの等高線を西へ追っていくと水路の取水口がある。この場所まで至らずに碑の正面にある水田地帯に水は落とされてしまうが、その水田地帯から山腹を見ていたら碑に気がついた。双体道祖神などとともに祀られているが、湧水があって、日陰であることからいずれの碑も苔むしている。その環境からくるものなのだろう、現在すぐ上に改修された村道は、斜面が崩れそうになって通行止めになっている。迂回路がこの碑のすぐ下の旧道に誘導されていて、より目につきやすい位置にこの碑は立っている。やはり背丈ほどある碑である。

 

神小谷

 近ごろ“「象頭山」碑”にも触れた。この碑に相対するように立つ青面金剛の隣にも一石三十三観音が立つ。天保元年建立のもの。

 

 冒頭に4基と記した。もう一つは以前「和知野へ」で触れた和知野の集落内にあるもの。和知野は標高差が大きい集落。その集落のなかほどでの沢で取水された用水は、和知野川の近くまで下っていく。そこから取水の位置まで再び車道を上っていくと、その途中にこの碑はある。水路の標高差は70メートルほど。

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送られた人形

2019-03-27 23:33:21 | 民俗学

 

 五常倉掛のヒャクマンベーを訪れたあと、安曇野市明科の清水に寄ってみた。清水についても、これまで何度か触れている。とくに魔除け(3)では写真4枚を掲載した。平成2年3月21日に清水の百万遍を訪れたものである。倉掛のヒャクマンベーは、もちろん百万遍のことである。法音寺も百万遍であって、会田川沿いには百万遍と呼ばれている行事が濃密にあったことをうかがわせる。平成2年に訪れているということは、それからもう29年を経ている。「今でも行われているのだろうか」、そう思い寄ってみたのである。

 会田川からは崖上の別空間である清水であるが、ここでも戸数は減っているという。それでもIターンの方もいれば、ここで生まれてよその男性と結婚されて、「ここがいい」と言って新たに住まわれる方もいる。そうした方たちにも支えられて、今も百万遍は行われているという。この21日、お彼岸の中日の午後1時から始められたという百万遍。かつて訪れた時の記憶をたどって、人形が送られる集落境まで行ってみた。旧四賀村五常への昔の道だと言われる道を釜蓋の方へ歩いて行くと、まったく記憶になかったが、お地蔵さんが祀られている平に出る。そのまま少し進むと、会田川とともに、長野道の橋梁がよく見える高台に出る。すぐそこにもう隣集落の家が眼下に見え、まさに清水から見れば集落境とわかる。お地蔵さんの立つ場所について呼び名があるのか聞いてみたが、特別な呼称はなく、「お地蔵さん」と呼んでいるらしい。そのお地蔵さんの祀られている平の崖側をのぞいてみると、土手下に藁人形が点在して捨てられていた。数えると10体ほど。よく見れば朽ちたものも見えるから、昨年のものも残っている。かつて見た人形同様に、腰には刀を挿している。それぞれの家で人形を作って、百万遍に持ち寄るという。人形の数は異なるが、倉掛や法音寺のものと同系統のものといえよう。

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新野女夫岩の亡霊塔

2019-03-26 23:42:05 | つぶやき

 

 先日「高路沢の亡霊塔」について触れた。新野に高路沢と同じように背後地の沢に入ったところに、同じような空間がある。大村から巣山湖までの道は、センターラインのある比較的広い道である。大村から少し入ったその道沿いに、この空間はある。実は高路沢もそうだったが、ここも同じようにこれら石碑が向いている谷に用水路の取水口がある。どちらも取水口の近くというところに意味があるのかないのか、そのあたりははっきりしない。

 同じような空間と述べたのは、同じように主尊を馬頭観音とし、その脇に亡霊塔が立つ。この空間に祀られているのはほぼ馬頭観音。大きな「馬頭観世音」の碑が主尊であることは容易にわかる。この碑の裏側に塔婆が立っている。最も新しいものは平成30年4月のもの。高路沢のものと同じような文字が塔婆に見える。「女夫岩馬頭観世音菩薩専祈国土安穏五穀豊穣所願成就如意吉祥修」とある。国土安全や五穀豊穣を願うという多様な祈願対象は、高路沢と同じだ。

 女夫岩の亡霊塔も高路沢同様に下平武氏が『長野県民俗の会会報』41号へ「三遠南信の亡霊塔-怨霊信仰と供養の形を探る-」と題して報告しているが、いわれについては「詳細不明」とある。「昭和十三年五月」に建てられたもの。

 これら馬頭観音群はほとんど文字碑であるが、いくつか像碑がある。写真は「寛政九巳」(1797)に建てられた比較的古いものだ。ほとんどが明治以降の碑の中に、このような1800年以前のものが混じる。長い年月丁重に祀られてきた空間だとわかる。「女夫岩」とあるように少し離れた背後地に大きな岩がある。

 

 

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ある日当たりの良い空間で

2019-03-25 23:48:58 | 農村環境

 

 ここは、比較的緩斜面で南向きの日当たり良い所だ。緩斜面といっても、山の中だからそこそこ傾斜はある。尾根の頂きは畑が耕されているが、谷の中のかつて水田であったところは、ほぼすべて荒れている。こうなってもう10年近いのだろうか。より条件不利地は20年、いや30年ほど耕作はされず、場所によっては山林化している。その中にぽつんと小さな田んぼが1枚だけ、耕作されている。遥か下まで水田であったことから、もちろん用水は運ばれていた。そして水路も水田同様に荒れ果てていた。機能を失った水路は、土水路ほども水を運べていない。国土崩壊とはこういうことなんだろう。たった1枚の水田が、よくぞ耕作されていると感心してしまう。この1枚のためだけなら、谷の上から供給されるか細い水で水田は耕作できただろうが、かつては谷中水田であったから、それだけでは足りないから、遠く水が豊富だった沢から水を引いた。それは尾根を越えた多くの谷を繋ぐように、等高線に沿って引かれたことは言うまでもない。

 かつてこうした谷を繋ぐように引かれた水路は、それぞれの地域で時代は異なった。江戸時代に引かれたものもあれば、明治、大正、そして昭和のものもあっただう。コメが欲しいとみなが皆思い、山間の地の至るところは開田された。当初は土水路で引かれ、険しければ樋でそれらは繋がれた。荒れ果てた水田地帯のほとんどに、製品の水路が敷かれている。土水路の場所は珍しい。それほどこの国の、そしてこの地域のかんがい用水は整備された。製品の水路が汎用化したのは、戦後も昭和40年代以降のこと。もしかしたら、最も農業空間に投資された時代かもしれない。間もなく荒廃化は進み、作ったばかりの水路に携わる人はどんどん減少していった。昭和50年、60年、そして平成一桁時代へと続いた整備の後、この姿になるまで、そう時間は要さなかった。

 この地域は湧水の多い地域。地すべりの兆候がある地域もあって、水抜きの工事、表面水を処理する工事、もちろん地すべりそのものを抑止する工事もされた。すべての行為が、もう遠い昔の記憶となって、ただただ残骸を残す。

 

 点々と見える家のほとんどに常時暮らされている趣はない。しかしながら、いまもって周囲の水では耕作されているところも多い。かつての住処は出作りの家へと変わっている。そう長くこれが続くはずもないが、いずれ、水が惹かれなくなれば、自ずとこの光景も見ごたえのある荒地に変わるのだろう。

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再び、倉掛のヒャクマンベー

2019-03-24 23:32:09 | 民俗学

 

 昨日触れたとおり、かつて「倉掛のヒャクマンベー」について記した。そのヒャクマンベーについても、本日訪れた。当時も彼岸に近い土日に行われていたが、今年も中日ではなく日曜日に実施された。5軒で実施されていた行事だけに、「今はどうなんだろう」とこの季節が訪れる度に思っていたが、考えてみれば倉掛では女性が中心となって実施されていたので、男性だけで実施されている行事よりは継続する可能性は高い。今もって行われていると聞き、ホッとしたしだいだ。とはいえ、今年の当番の家を訪れると、奥様てから4年ほど前に1軒仲間から外れた話を聞いた。自家が当番だった年、「来年から辞めます」という話があったという。とくに行事の中心的な女性だっただけに、皆には少し動揺があったようだが、その後も続けられている。

 今年もあらかじめウマは当番の家のご主人が用意されていた。実際はご主人ではなく別の方が作られたようだが、以前にも記したように、当番になった年だけ男性は加わるから、作るといっても不慣れなところがあるようだ。以前にも触れた通り、集合時間に集まるととくに打ち合わせをするわけでもなく、各々人形を作り始める。女性であっても毎年携わっていることなので、手早いものである。やはり指5本はしっかり意識され細工される。厄落としの棒である「十二ヶ月の厄落とし」は、ご主人が12本の螺旋を引くはずなのだが、今年は当番の家の奥様が引かれていた。わら人形は以前同様、大根のつばで刀が挿され、男性であることがわかるように、シンボルとしてトウガラシが股間に挿される。今年は侍の足が比較的閉じられていたせいで、完成した侍が自立できず、セッティングに苦労されていた。法音寺同様に手綱が藁で綯われたが、人形の大きさに比して、だいぶ長い手綱になった。

 完成すると善光寺大勧進の掛軸をそれぞれ拝んで、数珠回しとなる。この時「十二ヶ月の厄落とし」の棒は掛軸の前の祭壇に置かれる。人形を並べる向きについて、参加者の中で議論になったが、今年は掛軸側に向けて並べられた。以前は送る側、ようは縁側に向けて並べられたが、まったく逆だった。やはり中心的な女性が抜けられたことが影響しているようにも見えた。何といっても、今年は事前に掛軸などの道具は、当番の家で引取りに行っていたため、以前訪れた時のように、当渡しのような引き継ぎ式はなかった。わたしたちが訪れた際に、すでに掛軸は祭壇に掛けられていた。4軒の参加者だけで数珠を回すともなると、長い数珠は一層長さが際立ったが、途中で当番の家の息子さんたちが加わって、少し賑やかな数珠回しになった。3周回す数珠回しが3回繰り返され、いよいよ最後は数珠で人形たちが送り倒され、人形送りとなった。本来は縁側から人形を送るというが、今年は玄関から送られた。

 人形は川に掛かる橋上から川に捨てられたが、流れている水が少ないだけに、投げられた人形は、そのまま橋下に横たわっていた。当番の家から最寄りの川で送られるようで、当番の家によって送られる場所は異なる。

 今年の当番の家では、玄関の戸の上に「十二ヶ月の厄落とし」の棒を納めるための場所があって、古い棒が何本も重なっていた。当番の方が言うには、今年数本古い棒を捨てられたようだったがそれでも10本近い棒が玄関上に重なっていた。古いものも長さにして40センチから47センチほどのもの。今年作られた「十二ヶ月の厄落とし」は32センチと、少し短めのものだった。

 

 掛軸の背面には、「倉掛講中」として32名の名が記されている。「万延元申年」のものである。そして別に貼り紙されていて、そこには「覚」として毎年彼岸の中日の百万遍のお祝いは酒3升と定めるとある。

 

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法音寺の百万遍

2019-03-23 23:18:40 | 民俗学

 

 大岡の神送り行事が行われた彼岸の中日と同じ日、旧四賀村五常法音寺の百万遍を訪れた。旧大岡からは麻績村や旧坂北村、あるいは旧本城村を挟む位置にあるから、隣接地域というわけではない。かたやセイゾーボー、あるいはセイドーボーとかデイドーボーと呼ばれるものと、百万遍と呼ばれるもの、呼称からはまったく様子が異なるが、両者の行事には似通ったところが多い。とくに旧大岡周辺では、現在は中止してしまったようだが、先日触れた日方から近い長野市信更町軽井沢集落では、藁で馬に乗った侍大将と、侍、若侍の3体を作り、数珠を回した後、鉦を叩きながら人形を集落はずれまで行って放り投げてきたという。これは、かつて「倉掛のヒャクマンベー」で触れたものととてもよく似ている。何がよく似ているかと言えば、人形を侍と言っていること、3体作ること、そして集落境に送るということである。法音寺もまた、倉掛とは隣り合わせた地域であって、同じように侍らしき人形を3体作って、数珠を回した後、集落の入口の会田川へ流している。

 法音寺は戸数10戸の集落である。現在1戸は年寄りが亡くなって子どもがよそに住んでいるため事実上は無住であるが、この戸数は昔とほとんど同じだという。今で言う戸数が著しく減少傾向にある集落でもなく、新たな住民が住み着くという集落でもない。この日の百万遍には7戸からご主人の方々が参加された。集合の時間になると、とくに打ち合わせをするでもなく、それぞれがそれぞれの藁人形の製作に入る。わたしたちの方から、それぞれに「何を作っているんですか」と聞くと指であったり、人形本体であったり、と答えられるが、思い思いであることから、よく聞いてみると同じ部位を作っていることもある。ある程度作り始めてからそれぞれで作っているものを確認して、手を出されていない部位の製作に変更したりしていた。とくに侍を作っているという強い意識はなく、それら人形に特別な名前があるわけでも無いようであった。あえて言えば人形を乗せる馬は「ウマ」であることに違いはないよう。作っている人形が侍であることは、腰に挿される刀からはっきりとする。旧大岡の上中山でもそうだったように、曖昧な人形ながら、手の指ははっきりとわかるように作られた。ここでも同様に指ははっきりそれとわかるように5本作られ、わら人形の手とされる。手の平を意識されていることは、この地域の彼岸行事で作られる人形に共通しているようだ。ウマと人形3体を作るために用意された藁は、束にして5つほど。その量から人形はそれほど大きなものではないことがわかる。事実作り始めてそう時間を要さず、人形は完成する。上中山の人形に比較するとたいぶ小さい。ウマの足と刀にされる棒が7本用意された。この木は何の木でなくてはならないとは言わないが、今年は桑の棒を用意したという。刀のつばにするために大根の輪切りにされたもの3つも用意される。顔の部分には和紙が巻かれ、そこには人間の顔らしい眉毛、目、口、鼻が描かれる。そして前述したように、腰には刀が挿される。どの人形が馬に乗せられる人形だと意識されて作られることはなく、同じように作られた人形3体から、任意のものが馬の背に乗せられる。地面に立つ侍らしき人形は、腰に挿した刀が支えとなって自立できるように作られる。ようは足2本と刀で3点立ちである。これら人形とは別に「手綱」と呼ばれる縄が綯われ、中心に馬に乗った侍、前方に手綱を引く侍、後ろにもう1体侍が立ち、行列を組んだように人形はセットされる。

 これらを送り出す側の方向に向けて並べると、お清めの意味で人形にお神酒がかけられる。そして、人形を囲んで数珠を象った藁縄で周囲を囲み、いよいよ数珠回しとなる。常会長のところに結び目がくるようにせっとすると、そこから右回しに3周数珠を回する。唱えるのは「ナムアミダブツ」である。3周回すと数珠回しを終え、玄関ではなく、部屋の窓から人形を外に持ち出し、会田川の橋まで持っていくと、橋の上からそれらは投げ捨てられ、川へ流される。それほど大きな人形ではないので、いまもって川へ流しても問題はないようだ。

 時間にして人形を作り始めてから1時間ほどの行事。送った後に集会施設で直会となるが、用意する料理に何を作らなければならないというものは無いようだ。人形を作り、できたらすぐに数珠を回し、回したらすぐに送る。実にあっさりとした行事で、だからこそ継続することの負担もそれほどなさそうに見える。故に続けられているのだろう。これほど素朴な行事はないかもしれない。

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大岡上中山のセイゾーボー

2019-03-22 23:18:31 | 民俗学

大岡日方のセイゾーボーより

 

 昨日の例会の午後は、同じ旧大岡村の上中山のセーゾーボーを訪れた。おおよそ午後1時からということだったが、集会施設に集まられてブルーシートが敷かれると、すぐに集まった人たちで藁ないが始まった。女性も含めて10人ほどの方たちは、ブルーシートの周囲に円座となって盛んに藁ないを始める。皆がみな縄をなうのは、人形を縛るための縄である。縄ないがおおよそになると、二手に分かれて人形作りとなる。芯棒とする棒に藁束を頭で折り返すように巻きつけ、頭が丸くなるようにいかにも人形の頭風に縛り付ける。その直径は手のひらほどのもの。頭の形状が出来上がると、十字に次の芯棒を縛り、そこにも縦の芯棒側に藁の元になるように重ねて縛り付けていく。これが腕となる。藁先、いわゆる穂先は5本の指を意識して5つに分けて縛りあげていく。十字の下側にも胴体側に藁の元を縛り、下に穂先がくるようにすると、二つに分けて縛って足2本になるようにする。和紙に「へのへのもへじ」が書かれ、頭に藁で縛りつけられると、いよいよわら人形らしくなる。最後に男性を象って大根が足の付け根に付けられ、もう1体は女性を象って人参が付けられる。上中山では男女2体の人形が作られる。

 おおよそ人形が完成したところでわたしはお暇することになったが、細井雄次郎氏によると、40年以上前まではおとなが主体の行事だったという。その後子ども主体に移ったが、子どもが少なくなって再びおとなが主体の行事になっているようだ。細井氏が『長野県民俗の会会報』29号に報告した際の調査時は、男のシンボルはゴボウだったようだが、今年は大根のように見えたが、よく確認しなかった。細井氏によると、かつて調査した際にはシンボルをつけるのを止めていたようだが、調査を機にかつてのようにシンボルを付けるようになって、いまもってそれを継続しているという。シンボルをつけなかった時は、男女の区別を顔でしたようで、男は「へのへのもへじ」、女はそれを反転させた鏡文字のようだったが、今は顔は男女同じである。人形が出来上がると、鉦を叩きながら庚申場まで行き、人形を立てる。かつては庚申場で数珠を回したという。さらに細井氏によると、この行事を「オコーシン様にお参りに行く」と言うらしく、人形のことを「厄神様」と呼んでいるという。

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大岡日方のセイゾーボー

2019-03-21 23:06:09 | 民俗学

 

 長野県民俗の会214回例会で、長野市大岡の彼岸の神送り行事を訪ねた。この行事については、以前156回例会でも扱われ、旧大岡村内の何箇所かの行事後の藁人形を送った光景を見学した。今回は実際の行事日に合わせて行われたもので、一度実際の行事を見てみたいと思っていたので、待望の日でもあったのだが、同じ日に行われた松本市内の行事にかかわる調査が入っていたため、最後まで見学することができなかった。

 午前中に訪れた日方(ひなた)は、旧信州町と長野市信更に近い集落で、この行事日に合わせて福寿草祭りが開催されていた。大岡ひなた福寿草保存会が開いているもので、案内のチラシには「同時開催:正造坊(せいぞうぼう)」案内がされている。この日だけの福寿草祭りで、日方に福寿草が群生していることに気づいて福寿草の保存活動を始めてまだ数年のことだという。祭りも今年で4年目ということで、地区のみなさんが多くかかわってこの1日に力を入れられている。もちろん福寿草の保存活動も常日ごろされているようで、日方中を福寿草にしたいと増やす活動を積極的にされている。

 以前日方のセイゾーボーについて報告された細井雄次郎氏によると、戸数分のわら人形を作ったと言うが、現在聞いてみると戸数分ということにこだわっておらず、「作れるだけ」ということを口にされる方が複数おられた。藁を丸めて返したところが頭となって、そこに人形によっては髪の毛を結ったような形で飛び出しがつくものもあった。藁の先は足となり、そのまま下に折り返してあるものもあれば、先を綯ったものもある。人形の形はいわゆる藁人形のように十字形にされる方もいれば、手を綯った藁で表現されるものもあったりと、さまざまだ。というより、異星人のような姿と言っても良い。顔の部分には和紙を巻いて、そこに「へのへのもへじ」を書くものから、実際に人の顔を描くものなどさまざま。今年は20体ほど作られていた。人形はかつては竹の柄に挿されていたようだが、いまは木の棒を使われる方が多い。とくに何でなければいけないということは言わないようだ。

 もともとは子どもが行った行事だが、子どもが少なくなっておとなが行う行事に変わっている。人形が完成すると、集落境まで行列をなして行き、立てて送る。その先頭で「御腹の神お送り申す」と書かれた紙の旗が先導する。腹の神を送る行事という主旨になるのだろうか。細井氏によると「昔は一緒に腹の神も送った」と言うから、現在の主旨は先頭にこの旗がつくものの、腹の神はその中心ではないのかもしれない。道のりにしてちょうど400メートルほど歩いて行った集落の東にあたる場所にそれらは立てられた。とくにその場所の呼称はないようだが、旧道の脇である。今でこそ車道を歩いているが、かつては歩く道で最短の道があったようだ。前年に立てられた古い人形は脇に寄せられていた。

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御供の石仏群

2019-03-20 23:04:05 | つぶやき

 

 先ごろも昭和49年に毎日グラフに掲載された際の神子谷の道祖神について触れた。昭和49年といえばわたしは中学生だったが、なぜこの毎日グラフを持っているかといえば、もちろん伊那谷の石神仏が「グラフ」というのだから大きな写真で紹介していたから、おそらくたいしてお金もなかったのに、おこづかいからこの本を買ったに違いない。当時毎日グラフは250円だった。そしてその表紙を飾ったのは、「お役者道祖神」として知られた飯田市上殿岡の双体道祖神だったのである。表紙写真の説明が本の末尾に記されている。

 なんと愛らしい道祖神さんだろう。ぴったり寄りそった、おまけに、しゃれた元禄ふうのお高祖頭巾まで、かぶっていらっしゃる。高遠の石工の伝統を継ぐかなりの彫り達者の作品だろう。製作年代は江戸中期とみられるが、裏付けはない。飯田市上殿岡にある豪農の居宅わき、分かれ道のかたわらにあったが、いまは、その農家の庭先に移されて、大切に保存されている。素朴な道祖神が多い下伊那地方で、これは例外に属する逸品である。

 この解説は平川明氏によるもの。といってもいまは検索してもこの方のわかるものはどうも浮上しない。これが今のネット空間の常識で、昔なら著名な方でも、いまはネット上に登場しない、そんな方はたくさんいる。「素朴な道祖神が多い」ながら、「例外」と述べられているのは、それほどこの道祖神が美しいからだ。まずもって石質が、いわゆる高遠石工の名工守谷貞治がよく使った石に似ていることだろうか。銘文はなく、江戸中期は筆者の想像である。

 さて、同誌に神子谷の道祖神に近い町道わきのガケ上にあると紹介されている石仏が今までどこにあるものか知らなかった。神子谷の近くには岩屋のようなところに石仏が祀られているところは複数ある。間もなく同誌が発行されて半世紀近い今、それは阿南町御供の道から見上げるような場所にあった。岩に彫られたものは、磨崖仏ならぬ磨崖神で、「秋葉山大権現 金比羅大権現」と彫られている。岩の下には道と家々が見える。さらにこの場所からは県立阿南病院と、やはり南宮峡の斜張橋が望める。岩屋には三十三観音も納められていて、砂岩系のそれら石仏は、確かに素朴なものばかり。

 そんな石仏群の中に庚申と『阿南町誌』によると道祖神が祀られている。「庚申」文字碑には、下に三猿が彫られている。また、道祖神とされているものは「羍神」と刻まれており、「幸神」だという。「羍」(音読み「タツ」)の異体字に「幸」があるというから「幸神」なのだろう。実はこれは『長野県道祖神碑一覧』に掲載されていない。

 

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睡眠不足ランキングから

2019-03-19 23:55:55 | つぶやき

 先ごろ「睡眠不足が多い」都道府県ランキングというものがラジオ番組で話題になっていた。検索していると睡眠時間都道府県別ランキングというものもあって、「平均睡眠時間は7時間42分に対し、最も睡眠時間が長いのは秋田県で最も短いのは神奈川県だった(参照:総務省 2016 「社会生活基本調査から分かる47都道府県ランキング」)。「秋田美人」の語源には「日照時間が短いため、日焼けしづらく白肌を維持しやすい」ことが関係しているともいうが、睡眠時間が長いことも秋田美人の条件なのかも。他都道府県のランキングは以下。」などというウーマンズラボのページがあった。ちなみに総務省のデータで確認すると、全国平均は7時間40分、最長は秋田県の8時間2分、最短は埼玉県の7時間31分になっている。長野県は7時間47分と全国12位に位置していた。

 本題の「睡眠不足が多い」都道府県ランキングの方を検索してみる。すると3月18日が「睡眠の日」だそうで、睡眠健康推進機構が日本睡眠学会との協力によって制定したもので、9月3日とあわせて年2回あるという。そして、その前後1週間は「睡眠健康週間」として、睡眠に関する知識普及や啓もう活動が行われているらしい。だからラジオ番組で取り上げられていたというわけだ。

 今回は睡眠時間5時間未満を「睡眠不足」と仮定し、男女別に見た「『5時間未満』睡眠の割合が高い都道府県ランキング」を作成したという。男子最大は徳島県の26.2パーセント、女子最大は山梨県の19.7パーセントランキング5位内に長野県はない。冒頭の平均睡眠時間からして長いほうだから、登場するわけもないか、妙に納得する。5時間が睡眠不足の基準値になっているのは、仮定というから根拠はないのだろうが、その数値からふと気がつくのは、わたしにとって5時間は1日サイクルの中で大きな位置を占めているかもしれない。睡眠が5時間より短いとただでさえ蓄積する疲労が、翌日へ繰り越されて、どこかで挽回しないと、結局眠くて機能低下に陥る。以前も触れているように、わたしにとっては転寝も睡眠時間のうち。いまもって午前零時を過ぎてうたた寝から目覚めると、できるかぎり午前3時までには床に入ろうと、残りの時間に焦る。でも意外とこの時間帯は何をしてもけっこうはかどる。意外に一旦睡眠を軽くとった後の深夜の方が頭はよく回転するようだ。転寝と合わせて5時間が目安。これを下回ると、次の日の夜は、挽回するように転寝が長くなってしまう。でも現実的にはここでいう睡眠不足に該当している一人であることに間違いはない。

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高路沢の亡霊塔

2019-03-18 23:04:05 | つぶやき

 

 かつて売木村軒川の「人馬亡霊等」について触れた。亡霊塔の脇に塔婆が立っていたことについても触れたが、この地域には石碑とともに塔婆が立てられている姿をよく目にする。信仰心の篤さがうかがわれるわけだが、亡霊塔については、下平武氏が『長野県民俗の会会報』41号へ「三遠南信の亡霊塔-怨霊信仰と供養の形を探る-」と題して報告している。その中にも軒川の亡霊塔について伝承があげられているが、「軒山集落で割腹自殺をする者、鉄砲で自殺、山仕事の事故で亡くなる者、川でおぼれる者、また馬も死ぬことがあったりと、不幸な出来事が続いたため、平安を願って集落が主体で建て」たという。いろいろな供養をすべてこれひとつに集約して建てたように見えるが、そうした多様なものすべてを「亡霊」として括っているところが特徴と言える。そう考えると、先ごろ触れた飯島町日曽利のお日待ちで立てられる御札も同じようなものと捉えられる。石碑として建てられたのか、あるいは毎年更新される形で御札が立てられるのかの違いとも言える。

 先日阿南町の高路沢という小さな沢の上流にある用水路の取水口を訪ねた際、その脇の道を上ったところで車をUターンさせたわけだが、そこにちょっと変わった空間が目に入った。石碑がたくさん並んでいて、多くは馬頭観音なのだが、目立たない小さな文字碑に「亡霊塔」と刻まれていた。前傾の下平氏の報告にもこの亡霊塔は掲載されていて、いわれについて(同書の記載は一覧表にされているが、欄を間違えて記載されていると思う、この碑のいわれは違う欄に記載のある)「新野荒木区の住人があいついで亡くなった 自転車の事故 死者が生者をひく幽霊が出たとの噂あり」とある。「亡霊」だから「幽霊」と絡むのだろう、下平氏によると、亡霊塔には幽霊が出たためにその供養で建てたという伝承が多いようだ。亡き(不遇の死を遂げた)霊を弔う、あるいは供養する、そんな意味がこの塔にはあるようだ。この地域に亡霊塔が多く存在するようだが、やはりそれほど古い時代のものではなく、江戸末期から大正時代ころまでのものがほとんどのよう。とりわけ三遠南信(「遠」ははずしてもよいのかもしれないが)に多いようだが、とはいえ夥しいというほどの数ではない(下平氏の報告によると南信に8基、奥三河に12基)。

 さて、この空間の主尊と思われるものは「馬頭観世音」。その脇にやはり塔婆がたくさんまとめられていた。塔婆に書かれている文字は「奉修高路沢馬頭観世音菩薩専祈国土安穏五穀豊穣所願成就如意吉祥修」とある。売木村長島峠にあった塔婆にある「奉回向馬頭観世音菩薩冀 家門繁盛 諸縁如意 吉祥塔」と祈願対象はほぼ同じである。馬頭観音でありながら、願いは多様なのである。

 もうひとつ、この空間には丸彫りの馬頭観音も祀られているが、稚拙なイメージを与える馬頭観音もあって、親近感を抱く。石仏とは必ずしも精巧な彫刻でなければならないというものではないことを像は教えてくれる。

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あなたなら、どうする

2019-03-17 23:11:23 | ひとから学ぶ

 先日のこと、阿南町新野の現場に入った。さすがに我が家から出ても新野までというと遠い。休む間もなく歩き回っていたが、さすがに午後ともなれば口が乾く。道端の自販機を探してお茶を買おうとした。いくつか並んでいた自販機のひとつに120円を入れて買おうとしたが、別の自販機に目がとまり、よくあるケースだが、「こっちの方がいいか…」と思い買おうとしていたものをやめてつり銭の穴から一旦投入したお金を取り出した。「・・・やけに多いな」。数えると120円が360円になっていた。

 そういえばわたしが自販機の並んでいる場所に車を止めようとしたら、先客がいて、車を「どこに止めようか」と少し躊躇した。すぐに先客は発車していったが、先客はわたしと同じような身なりの、いわゆる現場仕事に来ているような風体の2人だった。ここでこの3倍返しのつり銭をいただくのは、もし先ほどの先客が戻ってきてつり銭がなかったら、「あいつが持っていった」と思われるのも嫌だったので、わたしが投入した分だけを取り出して、残りはつり銭の穴に戻したというわけだ。もちろん先客がつり銭を取り忘れた本人とは断定できないし、自販機は4台ほど並んでいたから、どの自販機で購入していたかもはっきりしない。

 近くの現場を済ましたあとに、それでもと思いもう一度その自販機に立ち寄ってみると、先ほどの240円は姿を消していた。道端の比較的目立つ自販機だから、利用客も多いのだろう、それほど長い時間がたっていたわけではないが、お金は消えていた。もちろんつり銭を取り忘れた人が戻ってきて持ち去ったとも考えられるが、「儲けた」と思って持ち去る人もいるだろう。そもそももう一度舞い戻ったわたしにも卑しい期待があったかもしれない。

 そんなことを思いその場を立ち去ったわけだが、しばらく走ると女の子が手にペットボトルを持って歩いていた。ふと通り過ぎる際に顔を見ると、ずいぶんにこやかに、そして軽やかに一人で歩いていた。「もしや」と先ほどの自販機の物語の続きに仕立て上げてしまったが、それはわたしの思いすごしだとは思う。でもそんな物語が成立したら「面白い」と思うとともに、思わず車を止めて彼女の様子をうかがいたくなってしまった。それほど女の子の表情は嬉しそうだった。

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