Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ある日当たりの良い空間で

2019-03-25 23:48:58 | 農村環境

 

 ここは、比較的緩斜面で南向きの日当たり良い所だ。緩斜面といっても、山の中だからそこそこ傾斜はある。尾根の頂きは畑が耕されているが、谷の中のかつて水田であったところは、ほぼすべて荒れている。こうなってもう10年近いのだろうか。より条件不利地は20年、いや30年ほど耕作はされず、場所によっては山林化している。その中にぽつんと小さな田んぼが1枚だけ、耕作されている。遥か下まで水田であったことから、もちろん用水は運ばれていた。そして水路も水田同様に荒れ果てていた。機能を失った水路は、土水路ほども水を運べていない。国土崩壊とはこういうことなんだろう。たった1枚の水田が、よくぞ耕作されていると感心してしまう。この1枚のためだけなら、谷の上から供給されるか細い水で水田は耕作できただろうが、かつては谷中水田であったから、それだけでは足りないから、遠く水が豊富だった沢から水を引いた。それは尾根を越えた多くの谷を繋ぐように、等高線に沿って引かれたことは言うまでもない。

 かつてこうした谷を繋ぐように引かれた水路は、それぞれの地域で時代は異なった。江戸時代に引かれたものもあれば、明治、大正、そして昭和のものもあっただう。コメが欲しいとみなが皆思い、山間の地の至るところは開田された。当初は土水路で引かれ、険しければ樋でそれらは繋がれた。荒れ果てた水田地帯のほとんどに、製品の水路が敷かれている。土水路の場所は珍しい。それほどこの国の、そしてこの地域のかんがい用水は整備された。製品の水路が汎用化したのは、戦後も昭和40年代以降のこと。もしかしたら、最も農業空間に投資された時代かもしれない。間もなく荒廃化は進み、作ったばかりの水路に携わる人はどんどん減少していった。昭和50年、60年、そして平成一桁時代へと続いた整備の後、この姿になるまで、そう時間は要さなかった。

 この地域は湧水の多い地域。地すべりの兆候がある地域もあって、水抜きの工事、表面水を処理する工事、もちろん地すべりそのものを抑止する工事もされた。すべての行為が、もう遠い昔の記憶となって、ただただ残骸を残す。

 

 点々と見える家のほとんどに常時暮らされている趣はない。しかしながら、いまもって周囲の水では耕作されているところも多い。かつての住処は出作りの家へと変わっている。そう長くこれが続くはずもないが、いずれ、水が惹かれなくなれば、自ずとこの光景も見ごたえのある荒地に変わるのだろう。


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