Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

倉掛のヒャクマンベー・後編

2012-03-21 20:40:08 | 民俗学

 縁側から追い出された行列は、トーヤの主人による鉦を先頭に参加者みなで行列を組んで送られる。厄落としの棒は「十二ヶ月の厄落とし」と呼ばれており、2本のうち1本はトーヤにそのまま置かれ、1本はウマや侍とともに送られる。12本描かれる螺旋についての理由の伝承はとくになく、毎年12本の螺旋が書かれる。トーヤに残されたこの棒は、呪いとして玄関などに掲げられて置かれる。とくにいつそれを処分するという伝承もなく、朽ち果てると処分するようである。

 今年のトーヤは流し場のすぐ上にあり、家から歩くこと100メートルもない。川端まで着くと、一斉に作り物を川に投げ捨て、後ろを振り向かずにトーヤに戻る。厄がついてこないようにという意味で振り向かないわけで、いわゆるさまざまな厄落としに共通しているものだ。念仏によって厄を封じ込め、作り物にその厄を負わせて送り出すという考えは、念仏と作り物というセットで伝承されている行事に共通しているものである。川沿いに家が点在する倉掛であるが、流し場は集落の外れというわけでもない。聞くところによると今年のトーヤから下流にある倉掛にとっては入り口にあたる家がトーヤの際は、そのお宅の近くの橋の下が流し場になるといい、今年の流し場であった十二沢川の支流の奥まったところにある倉掛の家がトーヤの際は、その家の近くの橋の下が流し場になるという。トーヤによって流し場が3ヵ所あるということになる。上流にトーヤがあれば、上流で流されるわけで、下流にある倉掛の家々にとってみれば厄が流されてきて、留まってしまうということもあるかもしれないがそういう意識はとくにない。

 30年ほど前までは大勢集まったというから、数世代が同居していて、さらに家の軒数も多かった時代ということになる。トーヤは家順に引き継がれていくというが、新たに加わった新宅は仲間に入っていない。それぞれの家に集う形式から集会施設に行事の場が移る時代にあって、ここでは軒数が少ないということもあって、トーヤに集まる旧来の方法が今も受け継がれている。川沿いのわずかながら点在する農地のほとんどは畑であって、かつて傾斜畑だったと思われる山肌は地すべりの兆候が見え、その防止工事が行われている箇所もあった。倉掛の人々は下流側の会田川に近いところに水田を持つという。それと十二沢川をさかのぼったところにも少し水田があるという。倉掛は十二沢川に沿って3軒ほど、その支流を遡ったところに2軒今はある。その2軒以外にも奥まったところに家があるが、そこは倉掛ではなく、尾根向こうの板場なのだという。

 トーヤの引き継ぎ行われてからほぼ1時間ほどで行事は終了した。単純で素朴な行事である。それほど負担が重いわけではなく、継続していくにはちょうど良いくらいの行事だと、見る側も思うほどのもの。終了後の直らいに呼ばれてその場の雰囲気も味あわせていただいたが、隣組程度の寄り合いは倉掛独自の生活の場を描き出してきたと言える。他人がそこに入り込むこともなく、当たり前のようにこのような行事が受け継がれてきたことに感心させられるばかりである。

 終わり


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