Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

最期を見つめる

2008-05-26 12:44:31 | ひとから学ぶ
 この春、職員組合を脱退した。今までにも職員組合については折々に触れてきた。「損をしている馬鹿なやつだが」は2005年の日記である。「当面は辞めるつもりはない」と語って3年、すでに保険としての価値もまったくない。会社の変化も、そして意識の変化も余儀なくされているなかで、本来組合(以後そう呼ぶ)というものは、労働者に平等でなくてはならない。ところが組合内部にそんな主旨に沿うかたちの理念もなければ、差別は容認されたものである。むしろ違う意味で変わらなくてはならないのに、意識は昔と変わらず、口にする言葉だけは変わっている。「信用のおけない関係」ということになる。その後「わが社の職員組合」を書いたのは2006年である。読み直して思い出したのは、組合費のほとんどが会議費に使われているということである。無駄な会議と内容のない会議のために使われる費用と思うと、そんなものに負担をするのは馬鹿げているということになる。そして「労働組合組織率」を書いたのは2007年の初頭である。「〝辞める〟はもう言うのはよそう」と書いたにもかかわらず、辞めることにあいなった。不思議なもので働く空間の雰囲気で、わたしの考えは振り子のように振れた。しかし一貫していることに違いはない。ようは形骸化したものを続ける必要もないし、必要であるならば必要な部分だけを小さく継続すればよい。ところがどちらにも向かない組合の流れは、もちろん解っていたから、辞める季節を待っていたということになる。その季節が到来したから辞めた、そういうことなのだ。組合トップに主旨を解っている顔が立たなくなった。その走りは前にも触れたような同じ顔が何度も繰り返し立つようになってからだ。組合に限らずわたしが何度も言うように、体制は新しい顔で更新していくものだと思う。それをできなくなると、いよいよ活力は低下し、いずれ消えざるを得ないのだ。その道をたどるようになぞってきた以上、必然の姿と言えるだろう。

 先日、同じ部署の先輩が「脱退届け」の書き方を聞いてきた。かつて組合の役員をしていた先輩にとっては、もっと早く辞めたかったに違いないが、わたしとは違い、そんな大胆なことはしない堅い方だった。常にわたしに「そういうもんじゃない」と戒めてくれた方だ。しかし、そんな先輩ですらこの会社の現状と、さらにはなんら価値のない活動を続ける組合に身銭を払う必要はないと判断したのだ。権力がないとなんら口にしてもたわごとになってしまう環境。「最悪のシナリオへ」に登場したかつての委員長のような権力者がかき回す姿は、見るに忍びないという印象を持っている。だからといって会社も辞めるなどということはできるはずもない。そうしたなかでの判断なのだ。わたしを戒め続けた先輩のこの判断、実はわたしにとっては大きなものである。それほど疲弊している景色を、おそらく誰もが感じているのだろうが、実は組合になんら疑問を持たない人たちは感じていないということになるのだろう。かつて疑問をぶちまけ、そして投げかけた以上に阻害されてきた事実を思い浮かべ、わたしの指摘はけして間違いではなかったということと、その歩みが堅実な人たちをも奈落の底におとしめてしまったということが歴然としてくるのである。
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