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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

北川不動明王

2008-05-10 11:52:02 | 農村環境


 連休中に謎の分杭峠から大鹿村へ抜けたことに触れた。分杭峠をしばらく下ると、中央構造線の北川露頭の駐車場が現れ、少し進むと左手に少しばかりの広場が現れ、小さな建物と石碑がいくつか建っている。覆屋の中に納まっている石造物は、どっしりとした不動明王である。ここは北川というところで、かつては集落があったらしい。竹入弘元氏の著した『伊那谷の石仏』に、この不動明王を紹介しながら興味深いことが書かれている。

 「鹿塩から分杭峠を越えて駒ヶ根市中沢へ出たことがあります。その日は鹿塩の入沢井・梨原・中峰等のを経巡って、こういう山の中に住んでいる人々の生活について色々考えさせられました。何しろ土地にしても殆ど平地というものが無く自動車道も造成中でしたが、まだ通じていない。従って豚を飼っているが餌はケーブルで運び上げるのでした。この配合飼料も遙かアメリカから来たもの。それをここまで運んで、豚の出荷がまた大変。これでソロバンが合うだろうか。いずれにしても労多く益少ない山家の暮しを如実に思い知らされたのでした。」

というものである。この本が著されたのは昭和51年のことである。高度成長が終わるころ、山間の奥まったところでは、かつての暮らしを抜け出そうとさまざまな試みがされていたにちがいない。そうしたなか、運送の手段を索道に頼り、それをもって豚を飼う。そして餌はアメリカから輸入した。これは珍しいことでもなんでもなく、日本中のあちこちで試みられていた現実だったのではないだろうか。いよいよ餌を外国に頼り始めていたわけで、現在の食料自給率低下を招いた元凶が、こんな山の奥にも至っていたわけである。おそらくアメリカから遠路はるばる運んだとしても採算が合ったのだろう。ということはこんな山奥でないところだったらもっと収益があがったはずである。したがってますます餌を外国に頼っていったはずだ。冷静に考えれば、そんな時代の山奥の農業事情ですら、食料自給率の低下を予想するには簡単なことだったわけである。

 その後間もない大鹿村も遠山谷にも足を踏み入れたが、それからさらに15年もたつと、荒廃した空間が明らかに採算の立ち行かない畜産のなりの果てを見せていた。すでに畜産ばかりではない。平地のない山間地域において、畑作物で生計を立てることに見切った人々がそうした荒廃した空間を作っていったのである。入沢井といえば地すべり地帯である。10年ほど前、そんな入沢井のあちこちを歩いた。空間のあちらこちらに地すべりの兆候が見えていて、加えてそれを見越したように家々に衰えが見えた。

 さて、竹入氏は「災害復興記念碑」について触れている。昭和36年に起きたいわゆる「三六災害」は伊那谷の人々には今なお記憶に残る災害である。多くの集落がこれをきっかけに直接的に、また間接的に消えてなくなった。そのひとつにこの北川も入るのだろう。そのムラを一人で留守居をしている不動明王なのだ。
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