Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大人たちの社会性の欠落

2008-05-23 12:20:13 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞5/19朝刊教育版における「コンパス」のなかで、数学者の秋山仁氏が「勉強より大切なこと」と題して寄稿している。そこにとりあげられた杉並区の中学校が、学校の放課後に塾代わりのようなことをやっていることはよく知られている。まあそれはともかくとして、秋山氏はそんな学力第一主義が、勉強より大切なことを認識しない子どもたちを育てることになるのではないかと憂いている。秋山氏は自らの中学時代のことをこう記している。


(前略) 中三の十二月ごろのこと。夕方、担任から家に突然、電話がかかってきた。「大切な話がある。クラス全員今すぐ学校に戻るように」。何事かと、煌々と明かりがともる教室に戻ってみると、クラスの半分くらいがもう席に着いていた。先生は教卓に無言で突っ伏していた。午後七時をすぎ、最後の一人が戻ると、先生はおもむろに口を開いた。「みんな床を見てみろ。今日は三班が掃除当番のはずだが、サボって帰ってしまったようだ。私が代わって掃除しておいた。受験勉強で忙しいのは分かるが、勉強よりもっと大切なことがあるぞ。みんなで決めた約束事はきちんと守ることだ。人間は大変なときにその本性を発揮するものだ。こういうときにこそルールを守ってほしい。(後略)


 帰路での同級生の受け止め方はさまざまだったというが、秋山氏はここで「人生にとても重要なことを教えてくれたと思う」と言う。そしそ「モラルの低下した昨今の社会は、多くの人々にとって、とても住みにくいイヤな世の中になっている。かつて学力が世界一だったとされる大人たちの社会性の欠落だ。子どもたちの学力を向上させるだけで本当に世の中は良くなるのだろうか?杉並区の中学は、親のニーズ、生徒の希望、生徒を受け入れる日本の社会システムすべてを考慮した熱心な学校である。だが、その熱意の方針の前提がそもそも正しいのか?」と続ける。

 悩み多いわが家において、子どもたちへ何を与えるのか、そんなことを思うと、果たしてわが家の教育がこれで良いとは思えない。農繁期の忙しいおり、果たして家業を手伝わずに勉学に励んでいる(姿だけで実は遊んでいるやもしれない)のが良いのだろうか、などと考える。できる子どもたちは、よそのことをしてもできるものだ。ところができの悪い子どもは、勉強ばかりしていてもできる限界がある。当たり前のことで、仕事をの早いやつもいれば遅いやつもいる。何が適正かは、それぞれが考えることなのだろう。限度内で勉強に差が出るというのなら、それは仕方のないことで、それよりももっと大事なことを覚えていかなくてはならないのではないかと思う。

 秋山氏の言う「大人たちの社会性の欠落」がこの世の中をどんどん非常識な社会にしている。言葉では言ったとしても身体が覚えていない。別の日記で電車に乗る際のマナーについて何度も述べている。つい先日も「不合理の導いたもの」でも書いたのだが、休日の伊那市駅で電車に乗ろうとすると、ドアの前に乗車しようとする客が集る。ドアが開いたらすぐにでも乗ろうというのだ。そして停車した電車のドアを開けると、降車しようとする客を圧倒するようにすぐさま乗り込んでいく40歳くらいのおじさん(わたしより若いとは思うが)がいる。もちろんその後を追って高校生も、大人も矢継ぎ早に乗り込んでいく。降車する客は降りれずに、いったんそんな乗客の途切れるのを待っている。そんな光景を昨日も見る。大人が率先して子どもたちに「乗る客が先」という間違いを見せている。今までにもそんな光景は何度も見てきたが、最近とくに目に付くとともに、大人が率先している。腹が立って仕方なく、いよいよわたしも「ふざけるな」と言う時がきそうである。妻曰く「あんたの言い方きついから気をつけた方がいいよ」。そうはいっても伊那市駅の風景はちょっといただけない。まさに大人たちの社会性の欠落なのである。
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