Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

食と農の行方

2007-02-13 08:17:37 | 農村環境
 「日本の食と農はどこへ行く」(『生活と自治』1月号―生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)の対談で、農民作家山下惣一氏のコメントは共感できることばかりだ。日本の食料自給率が下がった原因として、「牛飼い農家は牛ばかり、コメ農家はコメばかりというように他のものをつくらなくなったから」という考えは、わたしの考えと等しい。わたしの生まれたころは、農家の自給率が60パーセントくらいだったというが、今は12パーセントだという。農家だからといって自給自足ではないのだ。現実的な条件から、コメを作ることのできない立地もある。しかしそうした地域であっても主食としてコメではないものを利用して暮らしてきた。ある意味でそれを「貧しい」という捉え方もあるかもしれないが、農で暮らすということは、その立地のなかで工夫して生きることなのだ。しかし、コメというものが魅力あるものとして捉えられるとともに、日本全土でコメを作ることが推し進められた。自給自足もコメ主体と言うひとつのパターンができていったわけだ。それもまたひとつの過程であったのかもしれないが、生産調整とともに、そのパターンは効率的な収入を得るという、経済主義と同じ観点に陥っていった。だからこそ、わたしの周りでゆけば、果樹農家は果樹だけを作って金儲けをしていったわけだ。その果樹が下火になったときに、「もう農業はダメだ」と意識してしまうわけだ。同じようなことがあちこちで起きていった。これでは今がっんばっている農業者も、いつかは同じことに陥ることになる。

 山下氏はこうも言う。「今の日本では〝業〟の部分だけしか評価されない」。この業の説明をしており、〝農〟は金にならない仕事の部分(水路や里山などの環境や景観の保全や地域社会の維持)、〝業〟は経済効果を生み出す仕事、という。この比率が9対1といい、〝業〟の部分しか評価されないから農業そのものが価値観を見出せないでいるという。費用対効果を問う時代に、無秩序な公費の垂れ流しはできない、という考えは間違ってはいない。しかし、そういう考えを農業に当てはめてしまうと、まさに〝業〟の部分の評価につながるわけで、継続できなくなるのは目に見えているわけだ。そうした農政が長年続けられ、そして時代ごとに政策はころころ変わったのだから、「農民は翻弄された」ということになるのだろう。「農地・水・環境保全向上対策」が始まる今年、この制度そのものがわたしには〝業〟の部分をぼかすために取り入れられた施策のように見えてならない。また例えで言うなら、こんなことも不合理なことである。ダム論議でわく長野県において、河川沿いで農地を持っている人たちは、〝業〟の部分で文句を言いたくなる。もともと河川には遊水地があって、そうした土地はいっぽうで肥沃な土地となった。だからこそ、河川沿いに農地を求めたわけだが、そうした河川沿いは、治水のために場合によっては堤外地になってしまったところも少なくない。まさに河川内農地なんだから、洪水に見舞われても文句は言えない。しかし、本来はあちこちに遊水地があったなら、集中的にそうした農地が被害を被ることはなかった。この場合は河川内であるからまだしも、ケースによっては、堤内地であっても随時遊水地状態になるような農地も珍しくはない。昨年の梅雨前線豪雨の際の、天竜川中川村小和田地区なんかは、まさにそうした水没常習地である。そうした水害を防ぐためには、結局堤防を高くしたりダムを造ったりと、効果が目に見えて敏速に見える施策がとられてゆく。しかし、長い目で見るといたちごっこになってしまうわけだ。何をすればよいか、などという愚問の前に、緊急性の高い方策をとらざるをえなかったのは、〝業〟を優先しようとする〝意識〟なのだ。農民もその〝業〟のために惑わされるから、〝農〟を見失いがちなのだ。しかし、責任問題を問われる行政は、そうした目に見えたものを推し進めるしかない、ということもなんとなく理解はできるわけで、日本人のすべての人たちの意識が変わらない限り、この構図は変わらないのだ。

 先ごろ書いた「食育の課題から」でも触れたが、食育のことについて、山下氏はこう言う。「1965年から1975年以降に生まれた人たち、ファミリーレストランで食事をして育った、いわば一番恵まれた世代が親になっている。和食離れが進み、コメを食わなくなった。出来合いの惣菜や弁当の方が安くつくし、食べ残しや野菜くずが出ないと買う」。このような世代やその次世代は、食べるものにお金をかけないで、ケイタイ電話の通話料には金を使う。そして「だけど、そういう親たちを育てたのは私たちの世代です。つらい農作業や家事は手伝わせないように。貧しいから自分たちは麦飯食っても、子どもにはウィンナーソーセージやチョコレートをと。良かれと思ってしてきたことだったんだよ。どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」と本音を言う。まさにこのとおりだとわたしも思う。良かれとおもってしたのに、どんどん悪い方向へ向っていった。それもすぐには気付かないわけだ。世代を越えて現象が明らかにされていったから。おそらく地域によってその年代に違いはあるのだろうが、おおよそは山下氏の言うとおり。山下氏のいう1965年から1975年以降という枠にわたしは入らないが、その雰囲気は近い世代だからわかる。自分の親、そしてそれから少しあとの親、似ていてもどこか違っていたのだろう。簡単にいえば、やはり戦争を知っている世代(この場合の知っているとは、戦争に関わったという意味での「知っている」である)か、そうでない世代かによるような気もする。知っている世代は、良かれと思う前に、子どもたちには口うるさく家業を手伝わせたように思う。

 最後に山下氏はこんなこともいう。「私は、生き残れるのは兼業農家だと思います」と。農外収入を得ながら、農業をする。ようはかつての農業に近いわけだ。農業だけでは現金収入を得られないから、農外の収入を得ようと、いろいろ工夫していた。かつてと違うのは、この時代は、より一層農外の部分で現金を得ないと、兼業ではやれないかもしれない。そこのところで、そうした環境に馴染むことができるかどうかが、わたしたちに問われるわけだ。そういう意味で、退職後の年金をもらいながら農業に従事する人たちは、ある意味で兼業農家の一種となるのだろう。しかし、そうした人たちだけに託すのではなく、多くの農業から離れていった農家出身者が、兼業農家を見直すことができれば、〝農〟の部分は生き長らえるような気がするのだ。ただし、今の農政はまったくこの方針とは正反対だ。国に頼らずに生きてゆく強さがあるか、そんな時に、古臭い意識が立ちはだかるわけだ。さて、行方はどこへ・・・。
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