Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

知事が変わって半年

2007-02-17 09:47:47 | ひとから学ぶ
 長野県の変化は正しい方向なのか正しくない方向なのか、さまざまな部分で違いはある。田中康夫から村井仁へ、知事が変わって半年が経過する。それまでのしかかっていた圧力から解放されたように元気になっている方たちに県会議員がいる。ようやくまともなやりとりができる、という雰囲気はありあで、それまでの議会では議案事項が否決されることが多かったのに、そんな案件はなくなった。根回しがされれば、自ずと否決されるような案件が提出されることはなくなるのだろうが、それにしてもそれまでの議会とは大きな違いである。田中時代にもクローズアップされた議員の資質という部分では、田中もヘボイが議員もヘボイ、というのが強い印象だった。だから、田中が辞めるのなら、議員もみんな入れ替わって欲しいというのが正直な気持ちであった。けんかした片方だけが処刑されて、同罪のもう片方は活気を帯びているのだからやるせない。

 議員だけではない。活気を帯びているのは市町村長である。それまでは首長との対話というものはほとんどなかっただけに、仕方のないことではあるが、ここぞとばかりに陳情が始まる。けして田中時代がすべて正当だったとは言えないが、県民はいつ変わるともしれない県のトップに振り回されたことは確かで、その振り回された時間をすべて否定されることは県民としても後退としかいえず、その6年ほどは何だったんだ、ということになってしまう。市町村が81あれば81人のトップがいる。その自治はさまざまである。今までにも何度も書いてきたが、長野市なんかの行政を見る限り、さすがに大きいからまともに住民の声は届かない。この市の職員の行動を見ているとまともではない。お役人そのもののように見える。大きくなればなるほどに、一種のサラリーマンである。同じことは大きな塊である県もそうである。住民もまたその怪しい大きな塊を評価するとなれば、入札制度とか世にクローズアップされる公共事業を透明性の、あるいは自治体の量りとして捉えようとするが、本来はそんな視点ではなくもっと違うのではないか、と思うのだ。

 知人のブログ「Governance Archives」では、そんな自治体の職員としてのあり方を解いている。その考え方がすべてではないと思うし、そこまで細かいことを行政職員に望みたいとも思わない。しかし、住民とどうかかわりどう向き合っていくか、という意味では、職員全員が真面目に考えていって欲しいことである。やたらに上に立っている、みたいな意識で人を見ないで欲しいのだ。

 村井仁知事のダムに対する姿勢が曖昧だと、信濃毎日新聞2/17社説で述べられている。これまでダムを選択肢に入れない治水を議論してきたなかでの浅川ダム建設への流れ。報道で踊る「脱・脱ダム」はまさに、すべての治水にダムは選択肢のひとつだと思わせる見出しとして見える。浅川に関しては地域のさまざまな思惑が絡んでいて、代案を出せないほどの現実があった。「すべての人に賛成してもらうことはできないかも知れないが、理解してもらう努力はしていく」という村井知事の言葉は、その背景を考慮すると、ほかに言葉が見つからない。最善の策とトップが考えたことは尊重したいとは思う。しかし、この6年をそっくりひっくり返すような、「どこでもダム」みたいな流れだけは避けて欲しいし、そういう発言を県の内部から出してはならないと思うわけだ。人としては、きっと田中とは比べものにならないほど村井は「良い人」なんだろう。しかし、周りに悪いやつがまだまだいっぱいいることが、心配でならない。
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