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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えなかった村③

2007-02-14 08:17:20 | 歴史から学ぶ
 富士山麓の村忍野村は、人口9千人弱の村である。西に富士吉田市、東に都留市、南側に山中湖村がある。比較的合併が進んだ地域である山梨県であるが、そんななかで、小さな村がそのまま残っている地域が富士山麓に集中している。忍野村が合併しない環境の第一は、交付税不交付団体であることによる。ファナックという会社の法人税収入があるため、黒字経営だと言うのだ。平成15年には交付団体だったというから、毎年不交付というわけではないようだが、そんな財政的な余裕が、合併への道に進まない第一要因だ。加えて、隣接する富士吉田市は赤字経営だというから、わざわざ地域の中心があってもそうしたところと合併は望まないわけだ。逆の立場、いわゆる小さな大赤字の村であっても、大きな市域が合併することに抵抗を示すことはある。詳しいことはわからないが、地域の中心であるとなれば、周辺地域の住民を受け入れるような施設を持ち合わせていることもある。だから、地域の中心地が赤字であっても、そうした広域行政の立場では、あながち抵抗するだけが正当とは限らない場合もある。どうも富士山麓の市町村には、そんなしがらみが多いようだ。一応富士北麓市町村合併研究会というものが設置されたというが、全体での合併は到底ありえなかったようだ。

 富士吉田市周辺では、例えば河口湖町(現富士川口湖町)との因縁の関係があるという。中央道のインターチェンジや富士河口湖高校の建設地や校名問題、河口湖町の富士山山開き祭りで吉田の火祭りの大松明を真似たことによる抗議問題など、両者には相容れない事件が重なる。また、富士吉田市と西桂町の間でも、かつて上暮地地区を富士吉田市に持って行かれたことによる住民感情が根強く残っているという。意外にもそんな話がぞくぞくわいてくる。しかし、そうしたことを抜きにしても、財政難という厳しい状況を踏まえて押し殺している、あるいはすでにそういうつまづきは忘れても地域一体化してゆこうという流れが、平成の合併であったようにわたしは捉えていたのだが、山梨県の事例を聞くと、因習にとらわれて上手くいかない、ということが多くて長野県とは違う様相を知る。だからこそ、中央市とか甲斐市、あるいは北杜市、甲州市なんていうどこにあるのか明確でない、かつての地名を取り払ったような市が誕生するのかもしれない。長野県内でかつての因習で合併がもめているというケースはそれほどなかったように記憶する。新たな行政名が気に入らないといって破談になったり、あくまで自立でいきたいという理由で破談になるのがせいぜいだった。

 河口湖町もそうだが、山梨県には不交付団体がいくつかあるようだ。さすがに東京に近いという立地は、長野県に比較すると、財政的にはまだ厳しくないのかもしれない。

 さて、紹介しているパンフレットは、「おしのの自然」というしおりである。昭和54年3月31日発行と奥付にはある。昭和55年の初頭に送っていただいたものだ。同時に2万5千分の1の地図をいただいたのだが、この地図を見てこの村は妙な村だと思ったものだ。それは山の頂が尊村境になっていなかったからだ。「そんなことはないだろう」と思ってよく見ると、地図全体が二色刷りされていて、村境を示す線が元図と距離にして500メートルもずれているからだった。「これはすごい村だぞ」と思ったのは10分くらいのことで、普通の村だと悟った。村内に自衛隊の北富士駐屯地がある。しおりで紹介されているのは、国の天然記念物に指定されている忍野八海か中心となる。文字のとおり八つの湧水池を総称していうもので、富士山からの伏流水が水源という。池の大きさは大きいもので400m2ほど、小さいものは80m2と小さい。

 実はいつか訪れた時に、と思い昭和55年に「忍野の石造文化財」を購入した。忍野村には信仰系の石造物はそれほど多くはない。そんななか、ここにも道祖神というものがあるのだが、面白いのは石祠を建てると、前にあった双体の道祖神を「隠居さん」というところである。内野集落にそうした隠居さんが二体あるということは知ったが、実はいまだにこの村を訪れていない。

 消えなかった村②
 消えた村をもう一度⑰
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