Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「伊那谷の南と北」第1章

2007-02-21 08:12:31 | 民俗学

第1章 「奥」というところ

 下伊那と上伊那、そういう比較は昔からされていた。松村義也氏は『山裾筆記』(信濃教育会出版部・平成3年)のなかでこんなことを書いている。

①「上伊那の方は奥と呼んで、ごっついとこだと決めていたことがあった。こちらへ嫁ったことを、へぼいとこへ行ったと思われたものでした。飯田近辺は何たって派手だった。下伊那は当時養蚕景気で、生活やすべてがべんこうっていうかはいからだった。嫁ってきたころ、こっちでは火端に寄っちゃ話をするのを聞いていると、愛国(稲の品種)がどうの、しまぼうずがどうの、はちはちがどうのと米作りの話っきりだった。養蚕の話なぞめったにしなかった」

 これは、下伊那の高森町の山吹から、上伊那郡飯島町へ嫁いだ明治41年生まれのおばあさんから聞き取ったものという。明治41年生まれといえば、わたしの祖母より少し年上くらいだから、わが家と似た環境だ。きっと昭和初年に嫁いできたのだろうから、そのころは養蚕がよかったのだろう。養蚕の良かった時代は、米より養蚕の方が銭になった。だから水田が多かった上伊那は、下伊那にとっては銭にならない地域と捉えられていたのだろうか。その後の養蚕の低迷をみれば、そう言われていたのは一時のことだったのかもしれない。

 続いて松村氏は次のようなことも書いている。

②「飯田の人達は、私達上伊那方面から来た人間を「あいつは奥の人だ」といいました。奥とは、今の言葉でいえば、低開発地、未開発地、詰まり、野暮野蛮人だという訳です」

 この言葉は、森下二郎先生の思い出から飯田の方が語っているものだが、森下氏は現在の下伊那郡松川町上片桐の人だった。昭和の合併で郡を越えて合併したために現在では下伊那郡になっているが、元は上伊那郡である。

 ①と②、それぞれに共通していることがあるが、そのことに松村氏が気がついていたかはわからない。その共通点とは、どちらの言葉も飯田とか伊那、あるいは赤穂といったマチ場の人の言葉ではないことだ。①は山吹から飯島へ嫁いで言われたこと思ったこと。②は上片桐から飯田の旧制中学に通って言われたこと。対象者はどちらも村部、郡境域の人である。果たして飯田のマチから赤穂のマチへ嫁いだり、伊那から飯田の中学に通って同じことが言われたか、と考えると、わたしには少し言い回しが変わっていたと思うわけだ。とくに①の事例は、どちらも村部であって、嫁いだ女性は、生まれ故郷を良く言いたかったのではないか、とそんなことを思うわけだ。おそらく語った時は、すでに養蚕は廃れていて、米を作れる地域の方が良かった時代のように思う。そして②にいたっては、たまたま上伊那から来た人に言われた言葉だったが、同じ下伊那郡内でも、飯田のマチ意外から来た人には、さげすんだ見方がされていただろう。

 さて、以上はマチとムラを対比すれば自ずと出てくる言葉の事例としてとりあげたのだが、松村氏が指摘するように、下伊那より上伊那、いわゆる天竜川をさかのぼるほどに「奥」という言い方をしていたことについては、両者の地域性を作り上げていった原点のような気がしてならない。実はこの「奥」という言い方は、わたしの時代にはすでになかったものだ。なぜそれが言えるか、といえば、同じように上伊那境から飯田のマチにある高校に通ったのに、そんなことを言われたことは一度もなかったからだ。だから、この松村氏の本、あるいは同じことに触れている向山雅重氏の「伊那谷の南と北」(『長野県民俗の会会報』6・・・長野県民俗の会)を読まなければ知らなかったことで、意外だったわけだ。わたしには上伊那よりも下伊那の方が例えば上伊那の中心の人たちにはさげすんで見られている、という雰囲気があったからだ。それを自ら実感するために、わざわざ飯田のマチにある高校へ進んだようなものだ。だから自ら体感したものだから、あながち間違いではない、という意識が今でもある。ところが、この「奥」という言い回しを知って、両者の地域が交わらない実態の根底を示しているように思えてくるのだ。序章で松崎愉さんが語ったように、両者は同じ空間にありながら、意外にお互いを知っていないのだ。そして、松崎さん以外の方たちのグローバルな物言いは、裏を返せば、お互いを認めたくないからグローバルになるのでは、なんてちょっと悪く捉えてみたくなるわけだ。

 「奥」という言葉は、ある空間の中では、良い言葉とはとても思えない。「奥の方」とは、「山の中」とか「奥まったところ」という意味合いがあって、マチとか中央からすればムラとかヤマ、あるいは周縁とか遠い場所という印象が払えない。どう考えてもさげすんだ言い方だ。そういう言い方が一時的か長期的かは定かではないが、現在言われていなくとも、かつてあったということが上下の意識を際立たせているように思うわけだ。ただ、松村氏は「同じ上伊那のうちでも、赤穂辺の人たちは、西春近・東春近というともう「奥」と呼んできた」と述べているが、これはあくまでも赤穂のマチの人たちが、田舎の人たちをさげすんだ言い方の一地域として春近をみていた事例で、必ずしも赤穂と伊那を対比して言っていることではないと思うわけで、必ずしも「奥」という言い方が天竜川の上流を指していたかは明確ではないことは認識しておかなくてはならない。


 「伊那谷の南と北」序章

 

 「伊那谷の南と北」第2章

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