Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

社会的・文化的な性差

2006-02-25 00:53:25 | ひとから学ぶ
 「天皇は人か」を書いてトラックバックをもらった「紀子さんと雅子さんとジェンダー」は興味深い。コメントがずらっと並んでいてさまざまだとも思う。わたしのブログの中でも、明らかに従来の女性の立場を肯定している文が多いから、ジェンダー肯定ということになるのだろうか。しかし、この論争に溶け込んで女性論を述べようとは思っていない。

 会社でこんな話があった。わたしの会社には臨時の女性社員がいる。正規社員より早く出社して掃除やお茶汲みの用意をする。いまどきそんなのありか、といえばけっこうよそでもあるのだろう。もちろんなんでもありの世の中なんだから、それが仕事で何が悪い、なんていうことにもなる。レストランのウェイターだって同じじゃないかといえば確かにそうだ。しかし、職安に出す求人カードの仕事内容に「お茶汲み」とは書いてないだろう。まあ、入社してあまりにも非人道的であったら、辞めればよい、ということになるのかもしれない。そんなわが社で、そうした女性社員が気に入らないと文句をいう人も多い。仕事ができないだの電話の対応が悪いだのいろいろである。じゃあ自分はどうなんだと質問したくなるようなことも多い。そんななかお茶汲みの話が話題に上って、ある年配の人が「お茶の時間といってきちっとお茶を出すなんていうことはやめて、飲みたいときに飲みたい人が飲めばよいじゃないか」と、まあ言ってみれば常識的な発言をしたわけである。そしたら自分の意見には間違いなしと勘違いしているやはり年配の人が、「おれの考えは違う。朝仕事の始まる前にお茶が飲めるようにしてあるのが当然だ」と言ったという。
 
 わたしも時にびっくりするような言葉を聞いて絶句することがあるが、この後者の言葉を聞いてまさしく「へー」と思った。前者のかたは、強引なる後者に何を言っても無駄だと悟って「まあ、いろいろ考え方はあるからな」と話を切ったと言う。「毎日の繰り返し」とか「普段の気づかい」でも触れたが、気持ちだと思う。ただし、その気持ちの奥にもしかしたら、後者と同じ意図を持っていたとしたら、それは嘘につながるのかもしれないが、それは性差に関係なく共通するものであって、女性だからとかいう意図ではない。たとえば、好きなようにお茶を飲めばよいじゃないか、と思うなかで、してくれたらありがたい、と思っていたとしたら結局は優しさをちらつかせた詐欺師のようなものだ。でも、もしかしたらそうしたところをみながら人を評価したり、あるいは性格を把握しようとすることがあるかもしれない。いや、人とひととのかかわりのなかで、何を得るかといえば、対峙している人と自分との間隔をどう保つかという、微妙なもののように思う。とくに生物学的(ちょっと今回のテーマでいくとこの表現は正しくないかもしれないが)な異性との対峙とはそんなものなのではないだろうか。それはジェンダーフリーな生活を送っている人たちだって、同じではないのだろうか。ただ、「紀子さんと雅子さんとジェンダー」で語られているように、経験を積めば積むほどに性差が緩和されていくということはあるだろう。それを強く感じるのは、女性がいくつで結婚するかによって、男性と女性の力関係に変化が現れることである。「紀子さんは社会に一度も出ることなく、学生のまま結婚して皇室に入りました。男女雇用機会均等法一期生として、総合職女性のシンボル的生き方をしていた雅子さんとの違いはここにあります。20代をどう過ごすかによって、女性が大きく変わるということがよくわかりますね。」と前記のブログでも触れられているように、同じようなことは一般の夫婦間でもよくある。
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