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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

道州制への懸念

2006-02-17 16:41:06 | 歴史から学ぶ
 思ったとおりである。道州制について今までにも何度か触れているが、飯田市長が地方制度審議会専門小委員会が近くまとめる道州制答申について懸念を表明した。「地方制度調査会の道州制について」に書いたように、県単位で区切ってしまうと、本来の交易圏という視点からいくと、行政枠が大きくなるにもかかわらず、隣接地とものごとを共有できない地域も生まれる。隣なのに今まで以上に遠くなってしまう、という印象はぬぐえないのである。結局明らかなる境となす線引きができないような地域では、県単位という道州制は不可能なわけである。そしてもっともこの枠に順応できない県が長野県といえるかもしれない。だからこそ、田中康夫知事は道州制に対して前向きでないし、分県されることを不安視している。しかし、道州制に進むとするのなら、いずれはこのことについて長野県民は本気で考えなくてはならない時がくるはずだ。

 ところで今日の中日新聞に興味深い記事があった。「この国のみそ」という特集で「第2部 東と西二またの悲劇―ナゴヤの成分 真ん中の宿命」というものである。ナゴヤ圏においては、東と西のどちらに所属するのか、そのせめぎあいにあう。「西」に該当するものに電話や周波数がある。いっぽう「東」に該当するものに夏の甲子園のグループ分けがある。そして分断されるものとして、全国高校サッカーでは、愛知と岐阜は東、三重は西に入る。こうした事例から、ナゴヤは日本の真ん中にありながら、東西から引っ張られ、引き裂かれる「裂け目」となる。記事では「このごろはサッカー大会で済んでいるが、歴史上の「裂け目」はもっと過酷で非情だ」という。鎌倉時代の尾張、美濃の武士たちの非情はもちろんだが、とくに顕著なものとして幕末の尾張藩の悲劇をとりあげている。
 尾張藩は御三家筆頭であり、14代当主慶勝はその立場上東の幕府、西の朝廷の間で揺れ動くわけである。長州征伐では嫌々ながら幕府軍の総督を務め、大政奉還後には薩摩や長州とともに新政府の発足にかかわる。旧幕府軍対新政府軍の戊辰戦争で態度表明を迫られ、新政府軍への忠誠を誓うこととなる。そして1868年1月、慶勝が「旧幕府軍と組んで朝廷に反逆を企てた」として藩士14人を打ち首にした松青葉事件が起きる。この事件については、「新政府の忠誠を披瀝」するために仕立てた「大バクチ」だったともいわれる。そこまでしながら、旧尾張藩の人材は明治政府では薩長勢力に排除されたという。真ん中でありながら、決定的な東西の判断が見えなかったがために、どちらからも利用されただけで終わったことを歴史が示しているわけである。名古屋市名東区の明徳池近くに17体の菩薩像があるという。造られたのは昭和初期といい、「木曾三川の堤防工事で亡くなった薩摩藩士の慰霊だと聞かされた」と近在に住む人たちに伝えられている。しかし、菩薩像の背後には、松青葉事件で斬首された藩士の名があるという。記事の最後で、「事件後、半世紀以上を経ていても表立って弔うのがはばかられたのか」、そして、「カムフラージュのために三体多くされたとする菩薩像が、「裂け目」の闇の深さを物語っている」とまとめている。

 東西とか南北とか、二者択一の判断が求められることは多い。そして、世界をみても国内をみても、そうした二者のどちらにつくかで、歴史が語られてきている。実際には第三国とか、二者以外の世界も語られるが、人々の判断は「どっちにするのか」で常に葛藤するように、どうしてもどちらかを選択せざるを得ないことが多い。だから地域の分割もそうした視点になることは致し方ないが、真ん中でありながら境界域という現実は、その地域で生まれ育った者にしかわからないことかもしれない。中日新聞には掲載されても、東や西の新聞に掲載される記事ではないのだ。つまるところ、境界域の意思は無視されることになるのかもしれないが、この新聞記事は道州制の枠決めに対してのヒントであるように思う。

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