Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

今から人生の転換を

2006-02-10 08:17:45 | ひとから学ぶ
 真宗大谷派善勝寺報を毎月送ってもらっては読んでいる。飯田市伝馬町にある寺であるが、とくに檀家でもなければ特別な縁でもない。もちろん場所は知っているが一度も訪れたことはない。もう20年ほど前から購読している。いや、購読しているというよりも送ってもらうだけで、A4版4ページ立ての通信であるが、すべて読んだことは数回しかない。購読し始めたきっかけがなんだったのかよく覚えていない。昔はなんでもかんでも読もうとしていたから、そんななかで目にとまったせいだろう。そのころ親鸞に興味を抱いていたことも要因かもしれない。
 俗世に暮らしているから、こうした通信を読んでももっともだと思う一方で、そこに展開される仏の教えをわかっている人ばかりだったら、こんな世の中になるわけがないと、その矛盾な現実をみながらそう思ったりする。常に人々の邪心のようなものをついて、「そんなに目くじらたてるなよ」と言うこの寺の通信は、ある意味自分を穏やかにさせてくれると、最近は必ず1面には目を通している。2/1号が届いた。そこに「自分がひどい目に遭う。まわりを見ると楽しそうに生活している人がいる。(中略)みんな、お金があれば幸せ、お金がなければ不幸せ、健康な身体をもっていれば幸せ、病気になったら不幸せ、人に羨まれる地位や仕事に就いていれば幸せ、目立たない毎日を送っていると不幸せ、という物差しで生きるようになった。この世ではそういう生き方に、おかしいなと疑問を持つ人がいないのだ。」とあった。死して仏の世界を頼るのではなく、今から「本当の人生の素晴らしさを味わう人になりたいものだ」と諭している。格差社会だからと嘆くことは、結局は人への妬みを生む。まずは自らそうした妬みをなくそうとは思うが、同じにやっていてなぜこうも意識に差が出るのだ、と同じ会社にいてもそう思うことがある。
 このごろ当面の会社の方針らしきものが出された。普通だったら累積赤字に身動きできなくなるところなんだろうが、かつての貯蓄があって調整している。もちろん赤字なんだから給与なり手当てなりを控えて取り崩しを少なくするのが常識なんだろうが、どうもこの会社は違う。その原点に中堅以上の高齢化組が苦労して貯めた金なんだから自分たちの給与を下げるなんてとんでもない、という意識がある。減員して、いずれ給与も下げて、と先々が心配される状態ながら、出された方針はほぼ今まで通りという。結局貯蓄は使うだけ使ってなんとかしようという、問題の先送りとなった。あまりの暗さに「今をすばらしく生きよう」なんていう聞こえのよさがあるが、先の仏の世界のように、誰もが意識を変えて生きられればよいが、まわりの人の暮らしばかり羨んでいるから、楽観視した雰囲気が流れると、どうしようもなく意識は低下する。暗いよりはましという言い方もあるが、そうではない。自らが何をすることで満たされるかという部分が、あまりにも短絡的でレベルが低い。そうした意識を変えるためにも金がなくても幸せ、病気になっても幸せ、目立たなくても幸せ、なんていう意識があれば今何を望めばよいかと、思案ができるというのに情けないばかりである。人は人と思い、自らのできることをわたしはやっていくしかないと思っている。これも歳をとったからそう思えるのだろうか。そう思うと、歳をとるにつけ因業になっていく会社の年寄りたちが可愛そうにみえる。
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