皆様深夜になりました、石井映治郎です。
本日、レディースフィットネス&スパ・カラーズ店に於いて
「スペシャルコアボーディング」を行いました。
沢山の皆様と大汗!でございました。
担当荒井優子、石井映治郎、心より御礼申し上げます!
またご一緒しましょうね!
本日は秋分の日。
昼と夜の時間が半分!
わかりやすくていいですね(笑)。
さて、こんな秋の夜長の始まりには、色々なことを考えます。
誰しも、自分と違う価値観や他者を理解し受け入れることは、
簡単なようでとても難しいことです。
本来これは議論で解消できる事柄ではありません。
二十代、僕は自分が菩薩の如く大きな心で他人を受け入れる
人間であると自負しておりましたが、それはそれは大きな勘違いでした。
三十五を過ぎて感じること。
僕の許容範囲など、例えるならば、ホンの掌二つ分ほどであるということです。
ですから、今は、自分の軽はずみな発言によって人さまの何かを
傷つけたりしないかと、いつも自身に問いかけております。
それでも、沢山失敗します。
もちろん、逆に浴びることもあります。
人の人生にはそれぞれ想像以上にデリケートな一面があるものです。
痛みや恥ずかしさや絶望を味わえば、人生はいとも大きく転換する。
デリケートな一面とはつまり、心の襞。
切り口や環境や名称が違うだけで
それが織り成す感情は、誰しも同じほつれ方をする。
王子も庭師も貴族も市民も男も女もみな同じ。
故に時代を超えた名作芸術が尊ばれるのでしょう。
そして、名作や芸術には「属性」があります。
同じように人間にも個性や多面性や国籍、人種の違いがある。
同じでありながら同じではない。
違うけれど似ている。
似ているけれど違う。
「共通」している「普遍性」とは別の「個性」や「人格」があります。
それはゆっくりと創られるものであったり、背負うものであったり、様々です。
他者のそれらを理解し受け入れるか否かの判断や選択と
それに伴う行動は、わざわざ宣言せずとも、
表面ににじみ出るものであります。
言い換えればそれは、相手への尊厳や畏怖、謙虚さや親愛となって現れるものです。
僕は以前、好きか嫌いか、もしくは善悪で議論ばかりしておりました。
でも、「どちらが正しいか」で話し合いをすると、永遠に平行線なのです。
それは「好きか嫌いか善悪か」が根本にあったからです。
必要なのは勝ち負けではなく、考え方の違いを理解しあうこと。
そうすれば自然と、互いの視線は同じ方向に向こうと努力しはじめるのですね。
僕がそれを学んだのは、年下の仲間との出来事がきっかけでした。
完全に理解しあえれば素晴らしいけれど、そうはいかない事がある。
けれども話し合うことで、今まで味わえなかった「相手への安心感や信頼」が生まれる。
また理解し受け入れることは難しいと自負していれば、
自然と発言や態度もつつましくなるというもの。
僕は当時、彼に対して尊大であったという、今も続く反省と自戒をふまえ、
僕にとっては、そのときの記憶はかけがえのない経験であります。
さて、僕が忌み嫌うものに、「デリカシーの欠如」があります。
(自分のことだろ!と叱られそうですが…)
世の中当事者にしか解らないことがあります。
面白半分で笑いながら話す人を見て、同じようには笑えないこともあるということです。
運良く訂正を促せた時(殆どは笑って済ます)に戻ってくる言葉。
「そんなつもりはなかった」という常套句。
そうではなく、言われるまで
「気がつかなかった」だけの話であろうに。
わかったような顔をすることが、余計に相手を傷つけることがあります。
「自分だけは理解者。」
よりも
「よくわからないけど何かあれば話してね。」
のほうが救われる場合がある。
この「デリカシーの欠如」は、本当にどうしようもない厄介な現象です。
これに遭遇すると、大抵心の中は「憤慨」いたします。
しかし、その状況を、「お伝えできない」のが厄介なのです。
だって、相手は面白半分な上「悪気がない」のですから。
皆様、ありませんか?そういう経験。
そんなときには、僕は師に相談をしたり、両親に話したり、
まあそれはそれは凄いことになります(笑)。
そして夜、ひとりごちる。
大人の人間関係の距離感として、自分が距離をとられないよう
ああ、こちらも戒めにすればよいのだと。
そんなところに落ち着いた、未熟者のわたくし(↓)。
石井映治郎でした。