収穫の秋が近づいてきた。田んぼにたわわに稔った稲穂が輝いている。
かつて、「豊作」といえば、農民にとってナニモノにも代えがたい「喜び」であった。しかし、近年の「米あまり」 (というよりは、むしろ「米消費減退」という表現が正しいのだが)によって、豊作が素直に収穫の喜びには繋がらなくなってしまった。
全国の農協にとって、最大の収益源は組合員農家から販売を委託される米の取扱量(販売高)及び取扱手数料なのだが、記したような情勢下、その量は、年を追って減り続けている。
農協が組合員農家から、米の販売委託を請ける条件として、「仮渡金」(またの名を「前渡金」)という契約金を前払いする。その秋に収穫された米は実際に市場に流通してみないと、生産者たる農家の手取り金額は確定しないわけで、「全量買取」制ではなく、あくまでも「販売委託」を請けるための措置である。
この仮渡金、当然、米の品種によって異なるのだが、秋田県産あきたこまちの場合、ここ数年は60kg単位で12千円~15千円が、仮渡金として農家へ支払われてきた。
ところが、相変わらずの米の消費不振(需要減退・供給過多)により、農家への最終的な精算額が、先ほどの仮渡金を下回るケースが出たこともあって、農協サイドでは、従前よりもシビアな試算をせざるを得ない状況に陥っていた。
そして、ついに19年産米について、仮渡金は支払うものの、60kgあたり、7千円前後という、未曾有に低い金額になりそうな見通しだという。
組合員農家からの付託であるなら、販売委託を請けた米は、その全量を農協が買い取り、農協が責任を持って市場に売り切ることが、その責務のはず。
旧来のモノの見方・考え方に拘り、行政的な視点しか持ち合わせてこなかった農協が、組織の根幹を為す「米」までも手放さねばならない崖っぷちに追い詰められている。
農協法を紐解くまでもなく、農協は組合員農家のために存在するものであり、「農協の、農協による農協」であって良いはずはない。
「農協の終わり」の始まりなのかも知れない。
かつて、「豊作」といえば、農民にとってナニモノにも代えがたい「喜び」であった。しかし、近年の「米あまり」 (というよりは、むしろ「米消費減退」という表現が正しいのだが)によって、豊作が素直に収穫の喜びには繋がらなくなってしまった。
全国の農協にとって、最大の収益源は組合員農家から販売を委託される米の取扱量(販売高)及び取扱手数料なのだが、記したような情勢下、その量は、年を追って減り続けている。
農協が組合員農家から、米の販売委託を請ける条件として、「仮渡金」(またの名を「前渡金」)という契約金を前払いする。その秋に収穫された米は実際に市場に流通してみないと、生産者たる農家の手取り金額は確定しないわけで、「全量買取」制ではなく、あくまでも「販売委託」を請けるための措置である。
この仮渡金、当然、米の品種によって異なるのだが、秋田県産あきたこまちの場合、ここ数年は60kg単位で12千円~15千円が、仮渡金として農家へ支払われてきた。
ところが、相変わらずの米の消費不振(需要減退・供給過多)により、農家への最終的な精算額が、先ほどの仮渡金を下回るケースが出たこともあって、農協サイドでは、従前よりもシビアな試算をせざるを得ない状況に陥っていた。
そして、ついに19年産米について、仮渡金は支払うものの、60kgあたり、7千円前後という、未曾有に低い金額になりそうな見通しだという。
組合員農家からの付託であるなら、販売委託を請けた米は、その全量を農協が買い取り、農協が責任を持って市場に売り切ることが、その責務のはず。
旧来のモノの見方・考え方に拘り、行政的な視点しか持ち合わせてこなかった農協が、組織の根幹を為す「米」までも手放さねばならない崖っぷちに追い詰められている。
農協法を紐解くまでもなく、農協は組合員農家のために存在するものであり、「農協の、農協による農協」であって良いはずはない。
「農協の終わり」の始まりなのかも知れない。