’55年の、保守合同、換言すれば自由民主党誕生以降、実に様々な疑獄事件が取りざたされて来た。そのいずれもが、普通の民主主義国家なら、ただちに「政権交代」に直結するほどの不祥事だったのに、この国では、なぜか、相も変らず、自民党だか自嘲する民衆党だかが、政権の座に居座り続けてきた。
結果として、国政は単なるセレモニーと化し、公僕の精神なぞカケラも持ち合わせず、プライドと自己保身こそが全てという、官僚の言うまま気ままの政策作りが継続されてきた。
国としてのビジョンも無ければ、将来に向けての国民サイドにたった立案もない。とにかく、現状通り、波風は決して立てない。あわよくば、死ぬまで、「国家公務員」としして、国民の税金から給料をくすね続けて安穏を決め込む。
その間、国民の暮らしが劣化しようが、それは、国民の自助努力の不足のせいであって、国の責任ではないし、今の世の中、すくなくとも「餓死」はするまい---
国の官僚なんて、所詮、その程度の感覚の持ち主なのだ。
官僚は国政の事務官にすぎないのだということ。そのことを意識している国民が、はたして何人居るのだろうか。
いまこそ、政権交代によって、この国の、いわば「生き様」が、国民目線で、大きく変わるのだということを、有権者は考えるべきなのだ。
今は、100パーセント体制側に取りこまれて見る影もないが、あの高市早苗女史でさえ、若き日には、燃えるような情熱で「アズ ア タックスペイヤー(納税者の視線)」と題した本を上梓している。目の前にある、この本の著者近撮の、当時の彼女は、キラキラかがやいているのだが。
とにかく、政権を代えよう。
ナーニ、ダメだったら、また元に戻せばいいんだ。なんにも、難しいことではないし、心配無用。世界中、どこの国でも、当たり前に行われている「政権交代」が、日本でできないわけはないのだから。
結果として、国政は単なるセレモニーと化し、公僕の精神なぞカケラも持ち合わせず、プライドと自己保身こそが全てという、官僚の言うまま気ままの政策作りが継続されてきた。
国としてのビジョンも無ければ、将来に向けての国民サイドにたった立案もない。とにかく、現状通り、波風は決して立てない。あわよくば、死ぬまで、「国家公務員」としして、国民の税金から給料をくすね続けて安穏を決め込む。
その間、国民の暮らしが劣化しようが、それは、国民の自助努力の不足のせいであって、国の責任ではないし、今の世の中、すくなくとも「餓死」はするまい---
国の官僚なんて、所詮、その程度の感覚の持ち主なのだ。
官僚は国政の事務官にすぎないのだということ。そのことを意識している国民が、はたして何人居るのだろうか。
いまこそ、政権交代によって、この国の、いわば「生き様」が、国民目線で、大きく変わるのだということを、有権者は考えるべきなのだ。
今は、100パーセント体制側に取りこまれて見る影もないが、あの高市早苗女史でさえ、若き日には、燃えるような情熱で「アズ ア タックスペイヤー(納税者の視線)」と題した本を上梓している。目の前にある、この本の著者近撮の、当時の彼女は、キラキラかがやいているのだが。
とにかく、政権を代えよう。
ナーニ、ダメだったら、また元に戻せばいいんだ。なんにも、難しいことではないし、心配無用。世界中、どこの国でも、当たり前に行われている「政権交代」が、日本でできないわけはないのだから。