This Is The Way I Am

ただし。が、気まぐれに、日常にて考えていることを綴ってみます。

高校生時代の自分を振り返ると

2006年01月24日 15時43分37秒 | Weblog
高校生の時の思い出。

母校はバリバリの進学校だったけど、
僕は、まぁ、勉強の出来る落ちこぼれ、だったらしいです。はい。笑。

当時の友達と話していると、
「え? そんなことしたっけなぁ?」って思う反面、
「まぁ、してても、おかしくないなぁ」って自分を再確認させられます。

数学の教師に、授業中に手を挙げて、
「先生の答え、間違ってませんか? 僕はそうは思わないんですけど」
って堂々と聞いて、授業を止めちゃったり。
(結局は自分が間違ってたんだけど。
 でも先生だって間違えるもの、と当然に思っていた。)

「この授業、つまんないし、自分の人生の時間の無駄」って言って、
ひとりで空いた教室で時間潰してたり。
(どんなに不良ぶってたクラスメートも、サボリはしなかったようです。)

「先生は、これを教えることに、何の意義があると思いますか?」
って笑顔で、難しい問いかけをしてみたり。
(でも、純粋に、聞きたかっただけ。)

「先生の授業、受けてても、意味ないですよ」って言って、
マッチョで強いって有名な英語の先生を泣かせちゃったり。
(これで、随分と有名になっちゃって、校長室にも呼び出されたなぁ。)

テストはいつも15分くらいで終わっちゃって、
テスト用紙に絵を書いたり、文章を逆さ文字で書いたりして、遊んでたり。
(だって出来る科目はワケなく出来たし、出来ない科目は出来なかったし。)

・・・。


要するに、僕にとっては、
高校時代の勉強とか学校とかっていうのは、
合ってなかったんじゃないかな?って思います。

まず、点数で計られるのが、好きじゃなかったしな。
でも、進学校では、それが命でしょ?
偏差値とか、テストの点数とか。
だって、英語で100点取ったから、偉いの?って感じだったし、
歴史で29点だったからって、何で怒られなくちゃいけないの?って疑問だった。
そもそも何でオールマイティに何でもやらせようとするの!?って。
(だから大学も、自分に合ったやり方で、自分に合った大学に入ったと思う。)

同じ頃、学校に編入した友達で、
ずば抜けて頭が良くて(つまり勤勉・努力家で)、
先生にも、周りにも、親達にも期待されすぎちゃって、
だけど、人間関係が上手くいかなくて、
最終的にノイローゼみたいになっちゃった子がいたけど、
その子はいつも言ってた。
「少しくらい馬鹿でもいいから、ただしみたいに、友達と騒げたらな」って。

でも、周りは、「彼みたいになりなさい」って模範生みたいに扱ってたり。
最終的には、ノイローゼ気味になっちゃって、
「可哀想ね」って同情の色で終わったけど。

僕は彼に同情はしないし、
自分を変える努力もせずに、甘えたこと言ってんなよ、
って結構、冷静に見てた。
表面上で彼を取り巻いていた人たちが、彼の機嫌を取るために、
僕に悪戯をしてみたりね。
で、あとからこっそり謝ってきたり。
「くっだらないなぁ、ほんと。」って思ってたのが、正直なところかもしれません。


所謂、「ぷっつん」状態じゃないけど、
皆から理解されないように振舞っていたのは、
今考えてみれば、僕なりの自分を守る方法だったのかなぁ、って思います。

僕の論理とか人生論とかで語ってしまえば、
きっと誰も僕に勝てなかったと思うから。
「勝負」ではないけど、誰も自分の土俵に乗ろうとしなかった。
僕の目に映るものが、どういった世界なのかを見もしないで、
好き勝手言われてばかりだったから、
どこかふざけて、「僕、難しいことは、解りませーん」って顔して、
そうやって、距離を取って、自分の立場を確保してきたのかなぁ、って、
久しぶりに昔を振り返って、そう思いました。


大学に入ってからは、そういうこともする必要がないし、
誰も点数とかで僕を計りはしないし、
もっと多様な目で僕を見てくれていると信じられる。

これから、学歴とか業績とかでジャッジされるだろうけど、
それ以上に人間としての資質がモノをいう社会に入ろうとしているので、
そんなに心配はしていない。

そう考えると、高校時代の独特な社会は、
やっぱり僕の資質には適していなかったんだろうな、って思います。
「どして、そんなやってることのレベルが低いの? くだらないの?」って、
多分、自分自身を違う視点に置いて、皆を眺めてたんだと思う。


それでも、心を通わせることのできる友達と出逢えて、
その友情とか絆みたいなものは残っているわけだし、
今の自分をつかさどる大切な年月だったのかな、って、
肯定的に、捉えて、当時を思い返すことが出来ます。


成長したぜ、おいらも。ふう。
長く書いたぜ、今日も。ふう。

解り合うことの、難しさ

2006年01月24日 02時25分09秒 | Weblog

寒い、真冬の夜中に、
外で突っ立って、三時間、話していた。
感覚の失われていく指先に、
時折、受話器越しに聞こえる彼女の涙声が、胸を締め付けるけど、
でも、理解し合わなくちゃいけない、事態だった。

僕は役者だから、
その気になれば、
相手の要望に則して、振舞うことも出来るだろう。

でも、一番に自分自身の素を知ってほしい人だから、
求められている言葉を、台詞で言うことは、したくない。

時には傷つけあったとしても、
あるいは、遠回りをしようとも、
誠実でありたい、素直でありたい、正直でありたい。
そう思う自分は、何て不器用なんだ、とつくづく思う。

普段、器用に、自分の思いのままに振舞っている分だけ、
一番深いところを伝える時に、痛みが伴う。

加えて、本当の奥底にある価値観や人生論は、
そうそう容易く理解し合えるものでもない。
でも、伝える努力と、それを受け取る努力がなければ、
肌の触れ合いと、くすぐり合いにしか、ならない。
肌を突き破って、肉を通り越して、
芯の部分で触れ合っていたいと思うから、
今、この時だけの、痛みなど、簡単に耐えることが出来よう。

自分に出来ることは、
伝えようとすることだけ。
自分に出来ることは、
伝えたと信じることだけ。

それを見失いたく、ない。

それが、解り合うことの、難しさ。